2011年7月4日月曜日

「本郷館を生きた人々 林芙美子をめぐって とんかつ・うなぎ・カチューシャの唄」

高橋幹夫 講演再録 「 本郷館を生きた人々 林芙美子をめぐって とんかつ・うなぎ・カチューシャの唄 」
( 連続セミナー第三回 「 百六年目の本郷館を考える - 現役最古・最大の下宿屋 -」 2011年3月30日 於:求道会館 主催:本郷館プロジェクト2 )

※ 『 森まゆみのむかしまち散歩 本郷館 姿消す学生下宿の雄 』(読売新聞2011年7月21日(木)朝刊) で言及
  





「これまで、本郷館の歴史について調べてきました、高橋幹夫と申します。

平成23年3月11日、マグニチュード9.0。
このたびの東日本大震災で被災された皆様には心よりお見舞い申し上げます。

大正12年9月1日、マグニチュード7.9。
約90年前、本郷館は船の様に揺れたといいます。

揺れが収まった後も、部屋の中にいるのを怖がって、ベッドを外に出して寝起きしていた人もいました。
中国人留学生でした。
それを気遣って、当時のご主人の息子さんが、付き添った、という話です。

本郷館には洋間もいくつかあり、中国などの留学生が住んでいました。
中国では、日本の様に床に寝るのではなく、ベッドを使うからだそうです。

その数年後、昭和の初め、本郷館には、地震に強い建物など、建築の構造を研究していた、若い学者が住んでいました。
後に日本で初めての高層ビル、霞ヶ関ビルの構造設計をし、建築学会会長なども努め、文化勲章を受けた、武藤清です。
武藤清は、五重塔が木造ながらも耐震性に優れていることも、研究のヒントのひとつにしたといいます。
「五重塔と耐震」という論文も書いています。



武藤清は本郷館に住んでいた当時、既に東京大学の助教授でした。
東大の教官が住む程の、それだけの格式の下宿屋だった様です。
その頃の下宿屋というのは、食事付きで、今も旅館で使われている様な(脚付きの)お膳に、食事をひとり分ずつ載せて、
女中さんが住んでる下宿人の部屋まで運んでいたのですが、
たいてい、食事がまずいと攻められていて、お盆や正月には下宿人は皆とっとと田舎に帰ったものでしたが、
本郷館は例外で、とんかつやうなぎ、正月の雑煮などが好評で、
お盆や年末年始にも帰省せずに残っていた人も少なくなかったそうです。

同じ頃、東大病院の医師や翻訳家、作家なども住んでいました。
小児科医でシュバイツアー賞という賞を日本人で初めて受賞した、内藤寿七郎もいました。
映画評論家で翻訳家の佐々木能理男も住んでいました。
佐々木能理男が翻訳した本には、
ソビエトの映画監督エイゼシュテイン、「戦艦ポチョムキン」などの作品で知られるエイゼシュテインの書いた「映画の弁証法」などがあります。
当時のベストセラー作家、島田清次郎もいました。
そのころ住んでいた中国人で、祖国に帰って有名な作家になった茅盾(ぼうじゅん)もいました。
中国には、芥川賞や直木賞の様な、茅盾文学賞という賞があるそうです。



五重塔などをヒントに耐震性などを研究し文化勲章を受けた武藤清、
小児科医の内藤寿七郎、映画評論家で翻訳家の佐々木能理男、ベストセラー作家、島田清次郎、中国人作家、茅盾。
ドイツ語の医学書やロシア語や中国語の本を片手に、
当時の本郷館の美味しい食事、とんかつやうなぎに舌鼓を打っていたことでしょう。



そして、作家の林芙美子。
林芙美子といえば自伝的小説「放浪記」。
あの、女優の森光子さんのライフワーク、でんぐり返しのシーンでも知られる舞台「放浪記」、
その原作者、林芙美子も住んでいたのです。

恋人が本郷館に住んでいて、それでその恋人の部屋で一緒に生活するようになったようです。

舞台の「放浪記」には、主人公が恋人と暮らしている、本郷の下宿屋のシーンがあります。
なぜか林芙美子の原作には出てきません。本郷館がモデルなのかどうか、それは分かりません。
できるものなら、森光子さんに林芙美子ゆかりの本郷館の部屋をご覧頂きたいものです。

「放浪記」は、主人公が九州の炭坑の町で貧しく生まれ育ち、東京に出てくるところから始まっています。
路上に雨戸を置き品物を並べて売る、そんな暮らしです。

主人公のことばには、

「明日から、今から飢えていく」
「湯気の立つとんかつでもかぶりつきたい」「バナナにうなぎ」に「とんかつ」
「思い切り」「食べてみたい」。

住み込みで働くようになっても、ほっとできるのは、トイレに入っている時だけ、
そしてまた主人公はこう言います。

「気持ちが貧しくなってくると」「妙に落書きをしたくなってくる。とんかつにバナナ」「指で壁に書いていた」。

こんなふうに、上京したばかりの林芙美子が、かぶりつきたい、思い切り食べてみたい、
トイレの壁に書いて願ったという、とんかつやうなぎ、
そのとんかつやうなぎは、本郷館では、お膳に載せて、女中さんがめいめいの部屋に運んでいたのです。
林芙美子も、本郷館の部屋で、恋人と一緒にとんかつやうなぎに、
かぶりつき、思い切り食べていたことでしょう。



第二次世界大戦後、本郷館は食事付きではなくなりましたが、
様々な分野で活躍する人たちが住んでいました。

三菱信託社長だった池田謙蔵は、第一高等学校入学を控えて上京、本郷館に下宿したと、
日本経済新聞の「私の履歴書」に書いています。
そしてジャーナリストの央忠邦(なかばただくに)、
アイヌの伝統的弦楽器、トンコリの演奏家として知られる、加納沖(OKI)、
幕末・明治維新の頃の日本やアジアの歴史を研究してきた、
横浜市立大学元学長、現在の都留文科大学学長の加藤祐三。


こうして、本郷館は、様々な、多くの人たちと生きてきました。




最後に、本郷館ができて間もない頃のある流行歌と共に
もう一度この百六年という年月を振り返ってみたいと思います。

その歌とは「カチューシャの唄」。

トルストイの小説「復活」に出てくる、不幸な女性の名、カチューシャ。
日本でも、舞台、映画、主題歌が大当たりした「カチューシャの唄」。
林芙美子も「放浪記」の中で、
生まれ育った炭坑の町で、幼い日、カチューシャごっこをしたと書いている、カチューシャ。

大正時代、本郷館が東京女子高等師範、今のお茶の水女子大の寮だった頃、
窓の下に、音楽学校の苦学生でしょうか、
ヴァイオリンを持ってやってきて、「カチューシャの唄」を演奏することもありました。
3階でしょうか、道に面した部屋に、女子学生が集まり、
お金をハンカチに包み、紐に結んで降ろし、
それを受け取ったヴァイオリンの演奏者が歌詞の書かれた紙を結ぶと、引き上げる、
やがて演奏が始まり、それに合わせて、声をそろえて歌ったといいます。



「カチューシャ かわいや わかれのつらさ神に願いをかけましょうか

カチューシャ かわいや わかれのつらさ同じ姿でいてたもれ

カチューシャ かわいや わかれのつらさつらいわかれの涙のひまに

カチューシャ かわいや わかれのつらさ独り出て行く あすの旅」



(「カチューシャの唄」作詞 島村抱月(1871-1918)・相馬御風(1883-1960))」