2009年6月9日火曜日

 大正時代公営住宅制度歴史概略

(高橋幹夫「明治の団地 浅草玉姫町東京市公設長屋」5章より抜粋)




「大正7(1918)年、6月24日、
内務大臣のもと、救済事業調査会という審議会が発足しました。

この年、米の値段の高騰に、
日本各地で、庶民が値下げを訴えたり、鎮圧のために軍隊が出動した、
米騒動が起きました。
7月28日に
富山県で始まり、都市に限らず、全国に広まり、9月半ばまで続きました。

8月28日、
大阪市では、庶民の生活のため、それまでの米の安売りの他、
募金を集めて貸長屋などを作ろう、ということになり、
9月8日から、
新聞での募金の呼び掛けが始まったことは、3章に書きました。

9月21日、
救済事業調査会に、庶民の住宅について検討するための、たたき台、
『細民住宅改良要綱』が、内務大臣の名前で示されました。

12の項目には、「細民住宅建築のための」「公共団体の起債を認め、
低利資金の融通を図ること」というものも含まれていました。


同じ9月21日、
寺内正毅内閣は、総辞職に追い込まれました。

寺内正毅は、華族で、軍人出身、
その夫人が、浅草の大火の際、中央新聞に10円寄付した人であることは、4章で触れました。

『細民住宅改良要綱』も、寺内内閣の内務大臣にとって、最後の仕事のひとつになりました。

替わって、総理大臣となったのは、
東京市特殊小学校後援会の玉姫長屋の建設を主導した、
立憲政友会の、原敬、でした。

原敬は、内務大臣や文部大臣などの経験もありました。
爵位を拒み続けたので、「平民宰相」と呼ばれるようにもなりました。
原敬は、大火の際、募金が始まるとすぐに、30円を出していました。


11月5日、
救済事業調査会は、新しい内務大臣宛てに、
『小住宅改良要綱』を答申しました。

たたき台に対する委員の意見、
例えば、
「細民」という表現は避けた方がよい、
「細民住宅」という言い方は、「庶民住宅」にした方がよい、
などを踏まえて改訂、答申されました。

先程の項目も少し変わって、
「住宅建築および用地買入れ、その他、必要ある場合においては、
公共団体の起債を認め、および、低利資金の融通を図ること」、となりました」


「大正8(1919)年、5月、
横浜でも、大火をきっかけに、久保山住宅をつくることになったことや、
6月には、
大阪市の築港住宅と櫻宮住宅ができたことも、3章に書きました。

6月21日には、
内務省が、道府県知事に対し、「住宅改良助成」についての通知を出しました。


『小住宅改良要綱』を踏まえたと思われる、
『住宅改良助成通牒要綱』という形にまとめられていて、
「二.住宅建築および用地買入れ、その他、必要のある場合においては、
公共団体の起債を認めること」という項目もありました。

内務省は、道府県や市町村が住宅をつくるための資金を得るための具体的な方法を決め、
新聞などにも掲載されました。

道府県や「人口40万人以上の都市」が住宅をつくるために起債し、

それに対して、郵便貯金などを扱う大蔵省預金部から、内務省を通して資金を供給すること、

「郡市区町村」には「府県」を通して、
個人や組合には、「府県より直接」、あるいは、「郡市区町村」を通して、
貸付を行なうことをはじめ、

金利などが示されました。

主に住宅に対し、低金利で資金を融資したので、「住宅低利資金融通」などと呼ばれていました」


「この年、大正8(1919)年12月には、

東京府慈善協会が、
「日暮里町金杉に小住宅41戸、商店式家屋6戸、公益質屋、日用品廉価供給所、共同浴場」を
「建設」しました。

翌、大正9(1920)年、
公的な住宅は、日本各地に広がったようです。

昭和2(1927)年に内務省が発行した
『社会事業一覧』に載っている、「経済供給事業」という表で、
「設立年月」が、大正9(1920)年のところを挙げると、

6月、京都府「伏見町営家屋」「新町10」戸「菊屋32」戸、

8月、「前橋市営住宅」「94」戸、

9月、「和歌山市営住宅」「75」戸、
「佐賀市営住宅」「44」戸、
「熊本市営中坪井町住宅」「30」戸、

10月、「名古屋市新出来町住宅」「19」戸、
「京都市新町頭市営住宅」「甲8」戸「乙38」戸「丙66」戸、

11月、京都府「新舞鶴町 浜住宅」「27」戸、同「新舞鶴町 北吸住宅」「14」戸

などとなっています。

原敬は、首相をしていた間も、
大火の時に建てられた長屋のことを忘れてはいなかったと思いますが、
自分の政権下で行なわれるようになった、公的住宅への融資制度を、
どんな思い、どんな目でみていたのか、それは分かりません。

制度開始間もない、大正10(1921)年11月4日、
原敬は、暗殺されました。

制度は、その後も続きます。


昭和2(1927)年、
内務省発行の『第六回社会事業統計要覧』には、
「大正9年度」から「大正13年度」までの、
「住宅低利資金融通額および同資金による住宅建設戸数」という表があり、

年度別、道府県別に、住宅低利資金の金額と、それによる住宅戸数が分かります。


概略を記せば、

大正 9(1920)年度、
25道府県、2650戸、

大正10(1921)年度、
41道府県(千葉・茨城・静岡・山梨・香川・沖縄を除く道府県)、4353戸、

大正11(1922)年度、
41道府県(新潟、千葉、奈良、静岡、岩手、徳島を除く道府県)、4001戸、

大正12(1923)年度、
沖縄を除く46道府県、5704戸、

大正13(1924)年度、
沖縄を除く46道府県、5200戸、

となります。


こうして日本に公的住宅が広まった頃、

大正12(1923)年9月、
関東大震災が起き、

翌、大正13(1924)年、
震災復興のため、住宅供給などを目的に、同潤会が、設立されました。


明治44(1911)年、
浅草の大火の際に、大きな政党もかかわって、東京市が長屋を建ててから10数年、

米騒動という経済的社会的混乱がきっかけで公的な住宅をつくることになったり、

その大きな政党の、原敬が首相となったり、

公的住宅建設に対する国の融資制度ができたり、

日本の住宅の歴史に色々なことのあった月日でした」


参考小冊子 【レンガの長屋 玉姫御殿】



関連書籍等

『同潤会基礎資料』各巻内容はこちら
『団地日和』にはドラマ仕立て公団PR映像も。
『大いなる幻影』は同潤会大塚女子アパートが舞台。
『戦前期社会事業史料集成4』は(辛亥救災会含む)M43~T11の国内社会事業等の一覧(詳細はこちら
『戦前期社会事業史料集成9』は(大阪初の公営住宅等も掲載の)『日本社会事業名鑑』(T9)の復刻。






昭和初期市町村別公営住宅統計(昭和7年度末の例)

財団法人東京市政調査会発行『日本都市年鑑』には、
毎年、日本全国(植民地を含む)の市町村ごとの公営住宅の総戸数等が掲載されている。

引用されることの多い
『同潤会十年史』巻末のグラフ「六大都市公営住宅戸数トノ比較」が
「昭和八年三月末現在」であることことを踏まえ、
『日本都市年鑑(昭和九年用)』p240~244に掲載の
「経済的保護事業(昭和7年度末)」の数値を集計し、以下に概略を示した。

なお、『日本都市年鑑(昭和九年用)』の公営住宅に関するデータは、
東京市政調査会から各市町村への「照会に対する各市の回答に依る。
但し×印を附したる市は回答なき為、市勢要覧其の他により記入」とある。
「×印」の他、横須賀市等、空欄となっている市町村もある。

北海道・本州・四国・九州の総数は、89市町、23058戸。
(うち同潤会は6385戸で総数の約27.7%)

総戸数が70戸以上の市町村を列挙すると、順に、

東京市 8405戸(うち同潤会5018戸)
横浜市 3569戸(うち同潤会1367戸)
大阪市 3056戸
名古屋市 806戸
川崎市 440戸
京都市 381戸
長崎市 237戸
神戸市 217戸
金沢市 213戸
八戸市 206戸
福島市 199戸
若松市 175戸
新潟市 171戸
高崎市 169戸
富山市 156戸
浜松市 154戸
下関市 150戸
松山市 149戸
鹿児島市 137戸
四日市市 134戸
岡山市 132戸
盛岡市 126戸
仙台市 116戸
尼崎市 116戸
上田市 107戸
佐世保市 104戸
室蘭市 104戸
甲府市 101戸
戸畑市 100戸
浦和町 97戸
岐阜市 96戸
呉市 92戸
前橋市 92戸
広島市 86戸
水戸市 83戸
今治市 79戸
丸亀市 79戸
小樽市 77戸
和歌山市75戸
松阪市 74戸
高岡市 73戸
奈良市 71戸
堺市 70戸


関連書籍等

『同潤会基礎資料』各巻内容はこちら
『団地日和』にはドラマ仕立て公団PR映像も。
『大いなる幻影』は同潤会大塚女子アパートが舞台。
『戦前期社会事業史料集成4』は(辛亥救災会含む)M43~T11の国内社会事業等の一覧(詳細はこちら
『戦前期社会事業史料集成9』は(大阪初の公営住宅等も掲載の)『日本社会事業名鑑』(T9)の復刻。