2009年2月24日火曜日

【 受難の微笑 】(本郷の下宿屋/旅館 朝陽館 資料




小林要吉(1898?~1933)著
『受難の微笑』 (大正15(1926)年)

国会図書館所蔵

著者は、本郷の下宿屋(後に旅館)朝陽館に滞在、
本書で以下の通り、朝陽館に言及。


「弓町の朝陽館へこした。
お子さんが英馬と同じ元町小学校へ出ているので、
監督旁々下宿して貰いたいとの事であった。

この朝陽館の主人というのは、
まだ東京へ出て十年ほどにしかならない位の事であったが、
困苦して本郷では有名な下宿屋に仕上げたのである。

毎朝主人が真先に立って、番頭をつれて魚河岸と野菜市場へ買出しに行ってくる。
この奮励振りが、到頭この大きな下宿にしてしまったのである」(p142~143)

「二十四歳に東京に出てから、もう三十歳になった今日まで、足かけ七年間
朝陽館に我がままの限りをつくしていたのであるが、
もう朝陽館の長男の忠雄さんも、十八歳になったし、
次男の公ちゃんも十五歳になったので、
監督の必要も大して要らない」(p180)

「左の眼が赤くなって眼やにが沢山出ている。
それが間もなくひどい充血を起こして
非常に注意したにも拘わらず右眼に移ってしまった。

医者は、「三四日氷で冷やしつづけよ」というのである。

英馬には苦しい事であった。
遠い神田にいて用事の多くを持っている妹を招ぶわけにはならない。
看病して貰いたくとも頼むべき人がいない。

仕方なく朝陽館へ。

「忠雄さんにぜひ来て頂きたい。
序に一貫目ほどの氷を買って来て下さい」

と電話をかけた。

もう十八歳になっていた忠雄さんは、すぐ氷を持って来てくれた。
そして両の眼にそれを当てて、看病してくれるのである。

「忠雄さんすまないね。用事もあるだろうに呼びたてて」

「どういたしまして。
どんな用事でも、出来る事ならお安い御用です!」

と快く看病してくれるのである。

「お父さんからも、お母さんからも、よく看病して来い」

と言われて来たといって、
何くれとなく看取ってくれるのである。

英馬は忠雄さんところのお父さんお母さんのこうした心持ちには常に感謝している。

龍岡町にいる時、
元町の方へ出かけて春木屋で蕎麦を食った。

「蕎麦屋さん!私いただきましたけれど財布を忘れて来て一文もありませんが」
「はあ!・・・」

仕方ない客だ。
食い逃げでもするつもりで来たのかも知れない。
大面して食いやがってといった顔つきで、
ガラリと変わるのは商人の根性である。
なるほど商売人からすれば、
金があってのお得意さまで下にもおかないわけだが、
愈々金がないと定まれば、
着物を剥いでも取らねばならない。
それでも取る事が出来なければ足蹴にしても放り出さねばならない。
主人は今其の顔付きをしている。
英馬は、

「電話をおかし下さい。
料金は持っておらないが御損はおかけしませんから」

主人はいぶかしげな顔で貸すともなく、
貸さないともなく

「はあ・・・」

朝陽館ですか、
今春木屋へよったのですがあいにく財布を忘れて来ましてね。
後でお払い致しますが、
お家の帳面につけて頂くように此処へお願いしていきますから、
何卒よろしく」

主人も番頭もさげすむ眼つきで英馬を見ている。
とにかく主人に頼んで春木屋を出た。

其の後へ

「瀧澤先生はいらっしゃいますか、
お金を持ってきたところです」

と忠雄さんがせきこんで駆け付けた。

忠雄さんは、

「蕎麦は帳面でも何でもよいが、
財布をお忘れになられては何処へいらっしゃるにも御不便だ、
早くに此の五円札を持っていってお上げなさい」

とお母さんから言いつけられて後を追ったのだ。

英馬は今又其の忠雄さんの手を煩わして、
両の眼にガーゼを当て、其の上に氷をのせ、
仰向きに寝たまま、全然光を見ないでいる」(p204 ~207)



 
関連書籍

『集合住宅物語』には、本郷の元下宿屋・現旅館、鳳明館も。
『東京生活 no.11』には、本郷の現役下宿屋「暁秀館」記事。
『ローマ字日記』には、本郷の下宿屋(現旅館、太栄館)で書かれた所も。
『本郷菊富士ホテル』は、文人らが集い住んだ本郷の高等下宿。
『鬼の宿帖』は、同ホテル創業者子息の回想。
『菊坂ホテル』『鬼の栖』は、同ホテルがモデルの漫画・小説。
『男どアホウ甲子園』には、作者水島新司もいた、本郷の下宿屋泰明館が(20巻178・204頁 21巻72・82・90・186頁 25巻118頁に看板 22巻142頁に玄関外観)。







【 留学の栞 一名下宿屋案内 】 紹介

秋山鎌吉編
明治34(1901)年 刊

国会図書館所蔵。
同館ウェブサイトの”電子図書館”の”近代デジタルライブラリー”で閲覧可能。

公立図書館では、宮城県立図書館にも 所蔵。

内容は、当時の下宿屋のガイドブックで、大半は、本郷の下宿屋。

例えば、
「菊富士楼本店」(”デジタルライブラリー”上、総画面数43中11番目=11/43)、
「北辰館」(同14/43)
「蓋平館」(同15/43)
「奥井館」(同15/43) 等が掲載。

なお、表紙の絵柄は、蛍雪=蛍と雪。


参考

「蓋平館」 (石川啄木止宿)
「奥井館」(慶応大学塾長、奥井復太郎生家)については、
「本郷、下宿屋ものがたり」参照 目次 閲覧 




関連書籍等

『貼雑年譜』156-157頁に乱歩経営下宿屋の広告・平面図。
『屋根裏の散歩者』は、下宿屋が舞台。


【 「本郷館」居住歴確認著名者 】


【 「本郷館」居住歴確認著名者 】
 
『日本の近現代における都市集住形態としての
下宿屋の実証研究 
- 東京・本郷・「本郷館」をケース・スタディとして -』

「4-1 本郷館 (2)経営・生活史」  の補遺として



林芙美子(1903~1951) 作家。作品に『放浪記』等。
 ▼平林たい子『林芙美子』に、次の記述あり。
  「芙美子さんは…R氏の下宿していた本郷の本郷館に同棲することになった…
   大正十三年のことである」
  (この確認には、グーグルブックサーチが大きく寄与している)

武藤清(1903~1989) 耐震構造の研究者。霞ヶ関ビルも手掛けた。1983、文化勲章。
 ▼学士会『会員氏名録 昭和4年用』により確認

内藤寿七郎(1906~2007) 小児科医。著書に『育児の原理』等。1992、シュバイツアー賞。
 ▼本郷館旧住人T.H氏らが訪問・聴き取り。

茅盾(1986~1981) 中国の作家。作品に『子夜』等。
 ▼自伝『回想録』の「亡命生活」の項に、
   1928年、来日、東京で「本郷館住定」等とある。
  (この確認には、グーグルブックサーチが大きく寄与している)

島田清次郎(1899~1930) 作家。作品に『地上』等。
 ▼前掲『林芙美子』に、
 「本郷館…は、
  島田清次郎が下宿していたという因縁があって…」等とある。
 (この確認には、旧住人T.H氏が大きく寄与している)

池田謙蔵(1893~1974) 元三菱信託銀行社長。
 ▼『私の履歴書 第48集』に、
  「下宿は…東大正門近くの「本郷館」である」等とある。
  (この確認には、グーグルブックサーチが大きく寄与している)

佐々木能理男(1902~1972) 映画評論家・翻訳家。
 ▼学士会『会員氏名録 大正15年用』 『会員氏名録 大正16年用』により確認。
                                                  等

本ウェブログ関連ページ

講演再録「本郷館を生きた人々 林芙美子をめぐって とんかつ・うなぎ・カチューシャの唄」
『日本の近現代における都市集住形態としての下宿屋の実証研究
―東京・本郷・本郷館をケーススタディとして―』目次等

【西美濃が産んだ東京本郷旅館下宿屋街 続編】
本郷館の存続方法(参考 『下宿屋本郷館の生活実態』奥付より)
本郷館 立ち退き・取り壊し裁判日程等
本郷館 東京女高師寮時代 寄宿者自伝的小説抜粋



参考小冊子

【本郷館の半世紀】
【下宿屋本郷館の生活実態】
【The 20th Century of Hongoh=kan,a neighbor of Tokyo University】


本郷館関連団体ウェブサイト

「本郷館を考える会」オフィシャルサイト




本郷館関連書籍

【 いのちのうた 上巻 】お茶大寮時代の描写あり 
【 花より男子 18巻 】外観1コマあり 
【 Tokyo Style 】 写真 外観1点+中庭見下1点+室内(5室)17点 
【 求道学舎再生 】お隣の求道学舎


木造5階建 【 上野倶楽部 】 関連資料


宇野浩二『人に問われる』

初出: 『中央公論』 大正14(1925)年6月定期増刊
『宇野浩二全集 第四巻』 (昭和43(1968)年)所収


上野倶楽部がモデルと思われる、以下の描写あり。

羽根田武夫『鬼の宿帳』(昭和52(1977)年)p145~151の指摘による。




「東台館という貸間専門のビルディングの一間を借りていたことがある」

「洋風の、木造の五階建ての建物で」

「一切客の自炊制度で、
部屋だけを貸す仕掛になっていたのだが、

大抵の部屋は
六畳と四畳半とか、八畳と三畳とかいった風な、
二間つづきで、

押入に瓦斯と水道を取り付けた、
簡易な夫婦者に適当するような構造になっていた。

唯五階の、屋根裏に当たる部分だけが
大抵一間切りで、
それも五角形になっていたり、
三角の一端を切り取ったような恰好になっていたりする、
いびつな、半端な部屋が集まっていた」

「それ等のいびつな五階の部屋のうちでも、
一番いびつな、隅の部屋に陣取っていたのである。

それは恐らく日本の畳を標準にしていうと、
三畳敷位の大きさで、
而もその一畳分の隅には、
棚を吊ったような恰好の押入がついていた。

つまり普通によくある上と下との仕切られた押入の、
上半分だけに唐紙をつけたような具合になっているのだ。

だから、部屋の畳敷は三枚でも、
一枚の、上に押入のある部分では、
立つどころか、座ることさえ出来ないような、
小さな部屋だった。

それにも拘わらず、
その部屋の主」「は、
私の友達仲間でも一番の大男で、
身長は五尺八寸余りあった」

「「あの、押入の下のところをベッドにしているんです」」

「「身体を蝦魚にするんです、汽車の寝台のつもりです」」

「つまりその残りの二畳の分へ、
彼は卓子を置いたり、
又彼の仕事の道具である
絵具箱やカンバスの類を並べたり、
一脚切りの、腰掛代りの、
更紗の切を掛けた蜜柑箱を置いたり、
又隅の方には七輪や土瓶の類を並べたりしていた」

「古風な革の鞄の口を開けているのが目に入ったので、
何気なく中をのぞいて見ると、
米が入っているらしいので、驚いて、

「君は鞄に米を入れているんですか?」と聞くと、

「ええ、外に入れるものがないし、
それに買いに行く時見っともないですからね。
それでその鞄で買いに行くんです」」

「一階から五階まで、
(エレベーターのあるような高級な建物ではなかったから)
廊下を下駄ばきのままで上って行く」

「五階の部屋に入って、
そこの西洋風の扉に中から鍵を掛ける」



2009年2月18日水曜日

【 明治の団地 浅草玉姫町東京市公設長屋 】 目次等





『明治の団地 浅草玉姫町東京市公設長屋
The First Public Housing in Tokyo 』

高橋幹夫 著 平成20(2008)年 住宅総合研究財団 発行

所蔵図書館
石川・富山・大阪・三重・香川・神奈川・千葉・東京・新潟・宮城・山梨・愛知・岐阜 の各都道府県立

台東区立中央・練馬区立貫井・文京区立本郷・武蔵野市立中央



概要 

明治時代の末、東京市が、浅草の玉姫町に作った公設長屋は、
木造2階建てながら、
日本の集合住宅、公営住宅の歴史上、
東京市の古市場住宅や同潤会のアパートメント等に先立つものである。

当時の新聞記事等に基づき詳述、
平面図や外観写真等も掲載。 
前後の時代の公営住宅等の動向にも言及した。


目次
【 1章  はじめに 

【 2章  玉姫以前 】
      ① 八戸積善会住宅
      ② 竜宮館
      ③ 三福長屋

【 3章  災害や経済的困難と公的住宅 】

      ①八戸積善会住宅
      ②横浜市 市設 久保山住宅
      ③大阪市 市設 築港住宅・櫻宮住宅
      ④東京市特殊小学校後援会 鮫橋長屋
      ⑤同潤会

【 4章 東京市が玉姫町に建てた長屋 】

 ・ いきさつ
      ①東京市の公設長屋(後の辛亥救済会貸長屋)
      ②玉姫小学校児童保護者収容所
      ③東京市特殊小学校後援会 玉姫長屋
        ・ 寄付の呼び掛け
        ・ 芸者さんたちからの寄付
        ・ 経済界などからの寄付
        ・ 政治家からの寄付
        ・ 華族などからの寄付
        ・ 寄付の締め切り
        ・ 募金の使い途の決定 社告と連載記事
        ・ 収支報告書と市長あいさつ
        ・ 着工から完成まで
        ・ 落成式

 ・ 住まい・設備・施設
     ①玉姫小学校児童保護者収容所
     ②東京市の公設長屋(後の辛亥救済会貸長屋)
        ・ 敷地
        ・ 長屋
        ・ 浴場
        ・ 職業紹介所
        ・ 託児所
        ・ 集会所兼娯楽室
        ・ 商品販売所
        ・ 評判

     ③東京市特殊小学校後援会 玉姫長屋・橋場長屋

  ・ 帝国大学出身の設計者

【 5章 玉姫以後 】


          (以下、1~5章 中扉より)

明治33(1900)年頃   竜宮館
明治36(1903)年     八戸積善会住宅
明治45(1912)年以前  三福長屋
明治44(1911)年     玉姫小学校児童保護者収容所
               浅草玉姫町 東京市 公設長屋
明治45(1912)年    東京市特殊小学校後援会 橋場長屋
               同                玉姫長屋
大正 3(1914)年     東京市特殊小学校後援会 鮫橋長屋
大正 6(1917)年     秋田県慈善協会 貸長屋
大正 7(1918)年     米騒動
               大阪救済事業後援
               細民住宅改良要綱
               平民宰相 原敬
               小住宅改良要綱
大正 8(1919)年     横浜市 久保山住宅
               大阪市 築港住宅・櫻宮住宅
               住宅改良助成通牒要綱
               住宅低利融通
               東京府慈善協会 日暮里町金杉 小住宅
大正13(1924)年    同潤会

(以上)


参考小冊子 【レンガの長屋 玉姫御殿】



【 大正期公営住宅等一覧 】


昭和2(1927)年、内務省社会局社会部『社会事業一覧』

(復刻版『戦前期社会事業史料集成5』(昭和60(1985)年)所収

所蔵公立図書館: 
山形・福島・新潟・東京・千葉・愛知・岡山・広島・香川・福岡・宮崎の各都県立)

p78~90に掲載の表、『住宅供給事業』により作成。


なお、戸数の多い市町村は、順に、
横浜市2522戸、大阪市1721戸、東京市1453戸、横須賀市552戸、
川崎市305戸、京都市280戸、名古屋市273戸、長崎市270戸、
小田原市175戸、下関市150戸、神戸市141戸、鹿児島市137戸。

※以下に記すのは設立された年であり、必ずしも建造された年とは限らない。
カッコ内は戸数


大正3年

 東京児童就学奨励会 鮫橋長屋(24)

大正6年

 秋田県社会事業協会 共同長屋(20)
 東京府社会事業協会 王子住宅(74)
       同       尾久住宅(336)
       同       日暮里住宅(41)
       同       和田堀住宅(480)

大正8年

 大阪市設 桜宮住宅(202)
  同    鶴町第一期住宅(187)

大正9年

 前橋市営住宅(94)
(横浜市)中村町第一共同住宅館(35)
  同   中村町第二共同住宅館(24)
  同   南太田住宅(76)
(名古屋市)新出来住宅(19)
(京都市)新町頭市営住宅(112)
(京都府新舞鶴町)浜住宅(27)
     同     北吸住宅(14)
(京都府)伏見町営住宅(菊屋)(32)
     同        (新町)(10)
 大阪市設 玉出住宅(14)
   同   古市住宅(16)
   同   鶴町第二期住宅(650)
 和歌山市営住宅(75)
 高知市営住宅(54)
 佐賀市営住宅(44)
 熊本市営中坪井町住宅(30)

大正10年

 東京府住宅協会 広尾町住宅(18)
      同     落合町住宅(151)
      同     笹塚町住宅(63)
      同     淀橋町住宅(22)
      同     世田ヶ谷住宅(140)
 横須賀市営住宅(200)
(横浜市)斎藤分住宅(187)
  同  中村町住宅(134)
 甲府公設住宅(101)
 長野市営住宅(50)
(愛知県)半田町公営住宅(32)
(名古屋市)菊井町市営住宅(32)
   同   舎人町市営住宅(14)
   同   新尾頭町市営住宅(76)
(京都市)御前通市営住宅(83)
  同  田中市営住宅(25)
 大阪市設 平野住宅(18)
 大阪市設 鶴橋住宅(119)
(堺市)熊野町市設住宅(5)
 同  材木町市設住宅(11)
 同  遠里市設住宅(22)
 同  宿屋町市設住宅(18)
 神戸市設 重池住宅(99)
   同   松原住宅(42)
 尼崎市設住宅(116)
 奈良市営住宅(71)
(和歌山県)山田村営住宅(21)
 和歌山県営住宅(42)
 広島市営住宅(86)
 下関市営住宅(150)
(徳島県)羽ノ浦町営住宅(44)
 佐世保市営住宅(101)
 熊本市営黒髪町住宅(2)
 鹿児島市営住宅(137)

大正11年

(秋田県)大舘町営住宅(19)
 秋田市営住宅(33)
(群馬県)館林町営住宅(8)
 浦和町営住宅(?)
 東京府住宅協会 車町住宅(30)
     同      平塚住宅(88)
 川崎市営住宅(305)
(神奈川県)鶴見町営住宅(222)
 福井市日之出中町住宅(34)
(長野県)上田市営住宅(113)
(長野県)松本市営住宅(35)
(静岡県)堀之内町営住宅(23)
(名古屋市)古出来町市営住宅(25)
(京都市)東福寺市営住宅(40)
 大阪市設 堀川住宅(192)
 大阪市設 榎並住宅(8)
(鳥取県)倉吉町営住宅(28)
(広島県呉市)市営住宅(92)
(広島県)福山市営住宅(64)
(香川県)丸亀市営住宅(50)

大正12年

 東京市 古石場住宅(120)
  同   本郷区真砂住宅(67)
(神奈川県)藤沢町営住宅(25)
(横浜市)西戸部住宅(188)
  同  柏葉住宅(65)
(長野県)飯田町営住宅(70)
(静岡県)浜松市営住宅(50)
(愛知県)刈谷公営住宅(34)
 大阪市設 豊崎住宅(110)
(大阪府堺市)安井町市設住宅(12)
(兵庫県)明石市営住宅(52)
(兵庫県明石市)鍵町市営住宅(6)
     同    神屋町市営住宅(16)
     同    鷹匠町市営住宅(8)
     同    千代田町市営住宅(18)
(鳥取県)堺町営住宅(41)
(広島県)尾道市営住宅(43)
(山口県)宇部市営住宅(68)
(香川県)坂出町営住宅(13)
(香川県)善通寺町営住宅(12)
(香川県)多度津町営住宅(14)
長崎市営住宅(270)

大正13年

東京市 月島住宅(592)
東京市 三ノ輪町住宅(150)
東京市 横網住宅(20)
(浄土宗共済会)平塚仮住宅(268)
小田原町 新玉住宅(8)
小田原町 新玉住宅(18)
小田原町 新玉住宅(16)
(神奈川県)腰越村小住宅(25)
鎌倉町 蔵屋敷住宅(10)
鎌倉町 今小路住宅(41)
鎌倉町 泉ヶ谷住宅(19)
(神奈川県)秦野町 曽屋小住宅(16)
(神奈川県)秦野町 曽屋住宅(9)
(神奈川県)浦賀町 新井住宅(6)
(神奈川県)浦賀町 芝生住宅(27)
(神奈川県)浦賀町 鴨居住宅(17)
横須賀市 公郷住宅(70)
(横須賀市)佐野住宅(100)
(横浜市)大岡町住宅(199)
(横浜市)青木町台町住宅(3)
(横浜市)岡野町小住宅(123)
(横浜市)翁町宿泊所(16)
(横浜市)斎藤分小住宅(179)
(横浜市)天沼住宅(18)
(横浜市)大根久保小住宅(28)
(横浜市)根岸小住宅(78)
(横浜市)榎木町小住宅(33)
(横浜市)八反田小住宅(48)
(横浜市)雑色小住宅(46)
(横浜市)層下小住宅(200)
(福井県)八村村営住宅(?)
静岡市営住宅(65)
(愛知県)新城町公営住宅(30)
大阪市設 小路住宅(44)
大阪市設 北中島住宅(45)
(堺市)柳之町市設住宅(2)
(香川県)土庄町営住宅(13)
熊本市営横手町住宅(1)
熊本市営黒髪町住宅(17)
熊本市営大江町住宅(10)
熊本市営池田町住宅(18)
熊本市営住宅(30)
熊本市営鳥埼町住宅(1)
熊本市営東外坪井町住宅(2)
熊本市営二本木町住宅(3)

大正14年

山形市営住宅(16)
浦和町営住宅(87)
東京市 月島住宅(12)
東京市 本村住宅(420)
新義真言宗豊山派共豊園(312)
(神奈川県)厚木町住宅(25)
小田原町 十字住宅(14)
小田原町 十字住宅(20)
小田原町 萬年住宅(13)
小田原町 幸町住宅(48)
小田原町 幸町住宅(38)
(神奈川県)真鶴村 丸山住宅(29)
(神奈川県)真鶴村 学校前住宅(6)
(神奈川県)田島町営住宅(119)
(横浜市)井土ヶ谷住宅(147)
(横浜市)三澤住宅(34)
(横浜市)北方住宅(6)
(横浜市)七島住宅(31)
(横浜市)神ノ木仮住宅(110)
(横浜市)子安宿泊所(32)
(横浜市)柏葉共同住宅館(36)
(横浜市)稲荷山下収容所(68)
(横浜市)池ノ坂仮住宅(14)
(横浜市)山王山仮住宅(36)
(横浜市)池ノ坂収容所(132)
(横浜市)豆口住宅(94)
(横浜市)鷺山外人住宅(4)
(横浜市)分田仮住宅(40)
(横浜市)本牧住宅(2)
(長野県)篠ノ井町営住宅(28)
(長野県)臼田町営住宅(6)
(名古屋市)北押切町市営住宅(59)
(名古屋市)千種町市営住宅(43)
(愛知県)小牧町公営住宅(14)
(京都府)西九條小住宅(20)
大阪市設 住吉住宅(12)

大正15年

(賛育会)砂町仮住宅(180)
(神奈川県)腰越村小住宅(34)
横須賀市営住宅(182)
(横浜市)加層ノ上外人住宅(1)
(横浜市)山手外人住宅(7)
(名古屋市)西日置町市営住宅(5)
大阪市設 北畠住宅(104)



関連書籍等

『同潤会基礎資料』各巻内容はこちら
『団地日和』にはドラマ仕立て公団PR映像も。
『大いなる幻影』は同潤会大塚女子アパートが舞台。
『戦前期社会事業史料集成4』は(辛亥救災会含む)M43~T11の国内社会事業等の一覧(詳細はこちら
『戦前期社会事業史料集成9』は(大阪初の公営住宅等も掲載の)『日本社会事業名鑑』(T9)の復刻。





2009年2月6日金曜日

第159回江戸東京フォーラム
 【 日本近代の集合住宅の原点としての「下宿屋」 】
  高橋幹夫発表原稿




2003年9月22日 主催: 住宅総合研究財団 於:旅館「朝陽館」

以下は、3名の講師のうち、高橋幹夫担当の発表原稿


■はじめに
本日、建築専攻の堀江、地理専攻の松山とともに、
講師を務めさせていただきます、高橋と申します。

初めにご了承願いたいのですが、
私は大学など籍を置く研究者ではありません。
自分なりに、広い意味で「文化」について調べたり考えたりしている
市民に過ぎません。
そんな私に皆さんを前にお話しをする機会をいただき、
大変光栄に思っております。


最初に、私の「文化誌研究家」としての関心事について、お話しておきます。

まず、長崎ならではの桃の節句のお菓子、『桃かすてら』。

ご承知の通り、
長崎はオランダ、ポルトガルなどヨーロッパだけでなく、
中国の文化からも大きな影響を受けてきたところです。
中国では、桃は縁起の良いもの、
長崎名物、ポルトガルが起源とされるかすてらには、
この桃の形をした、『桃かすてら』というものがあります。
この、東西の文化の融合した、長崎ならではの『桃かすてら』、
しかし、旅行のガイドブックで紹介されることも、
みやげ物として売られることもまれ。
その土地独自のものでありながら、観光の対象ではない、
それはなぜなのか、私には大きな謎なのです。

また、フィリピンについて、現在、日本人が、どんなイメージを抱いているか、
それはなぜか、ということを調べてもいます。

フィリピンの女性は、出稼ぎ先の国の多くで、
看護士や介護士、ホテルの従業員、ハウスメイド、ベビーシッターとして
働いているのですが、
日本では、どうやら入国管理政策のため、
良く知られている様にほぼ特定の職種に限られ、
偏ったイメージを持たれてしまったのではないか、
それを今調べているところです。


そして、これからお話する『下宿屋』。

『桃かすてら』、『日本におけるフィリピンのイメージ』、『下宿屋』と、
好奇心にまかせて戯れてきました。

研究としては至らない面、
皆さんに教えていただくことが、
どうしても、あれこれあろうかと思いますが、
どうかよろしくお願いいたします。














■下宿屋・本郷・朝陽館・・・

始めに、今回の会場を、
なぜ、こちら、旅館である『朝陽館本家』さんとしたのか、
その訳をお話しさせてください。

『江戸東京』を語るのに似つかわしい
風情のあるたたずまいはもちろんなのですが、
朝陽館』さん、以前は下宿屋、本日のテーマである下宿屋だったのです。
しかも、明治35年、1902年」の創業、
100年を超える大変長い歴史をお持ちだからなのです。

また、ご主人のご親戚が、
この本、『ひとり語り』、
朝陽館』さんをはじめ、本郷下宿屋
多くの下宿屋のあった本郷の歴史をつづった、
大変貴重な本を私財を投じて書き残していらっしゃいます。

この本を地元の文京区立図書館の地域資料室でみつけたのが、
私どもの調査の出発点になりました。
感謝の念に絶えません。
拝読し、『朝陽館』さんを創業されたご先祖の生まれ故郷も訪ねてみました。
東京から遠く離れた、水辺の集落です。
水辺を好む鳥、白鷺が群れを成して空を舞い、
木々の梢に翼を休めている姿が印象的でした。

その土地を離れて東京にやってくる、
そして下宿屋をやろうと心を決めると東大のある本郷を目指す、
すると楠の大木が目に留まる、
そこには広い敷地に家が建ち、表札には『楠木』とあった、
ウソの様ですが、本当の話なのです、
この楠木さんから土地を借りて下宿屋を始めたそうです。

この楠木は今も健在、いわば本郷の生き証人です。

下宿屋朝陽館』は、たいそう繁盛した様です。

日本紳士録』に、お名前が、長期間掲載されています。
建物の規模も大きく、ある本を見ますと、
朝陽館』は43部屋、『朝陽館別館』は47部屋とあり、
合計90部屋あったと分かります。
また、どちらも木造3階建てでした。

ご親戚も本郷下宿屋、後に旅館をなさっていましたが、
中には、本郷旅館組合の幹部や文京区の区議会議員として
地元に貢献された方もいらっしゃいました。


さて、下宿屋とは、どんな集合住宅だったのでしょうか。
私は、明治時代大正時代の本、新聞などから垣間見てみました。

東京にはどんな学校があるのか、どんな心構え、準備が必要か、
明治20年代から昭和初期に掛けて、
そんな本がたくさん出されていました。

そうした本をできるだけ多く読み、
下宿屋についてどう書かれているか、見てみました。

一方、新聞は、ご存じの方も多いと思いますが、
CD-ROM化され検索に便利な『明治の讀賣新聞』を主に活用しました。

記事の中には『下宿屋通信』という下宿屋を読者の投稿で紹介した連載記事もありました。

また、地域としては、
今も、下宿屋下宿屋を前身とする旅館が現存している本郷を重点的に調べました。











■下宿屋・神田・本郷・・・


昔の下宿屋のガイドブックなどを見るとわかるのですが、
本郷下宿屋は、東大生ばかりでなく、
神田川を挟んで隣り合う神田の、
法政、中央、明治、日大などの学生も得意客としていた様です。
東大の前身である、東京医学校東京開成学校も元々は神田にありました。

東京医学校本郷に移転したのは、明治9年、1876年。
東京開成学校は、明治10年、1877年に東大法学部・理学部・文学部とありますが、
神田から本郷への移転は明治17年、1884年になってのことです。

本郷区神田区下宿屋の軒数や学生数を比べてみます。
本郷区というのは、文京区のおおよそ東半分に当たります。
下宿屋の軒数は、
明治24年、1891年までは、神田の方が本郷より多かったのですが、
例えば、明治35年、1902年、神田の学校の学生数は約9100人、
本郷は約6700人で、
学生数は神田本郷を大きく上回っているものの、
下宿屋は、本郷約450軒、神田約360軒で、
神田より本郷の方が多いのです。

昔の本には、
神田より本郷下宿屋が多くなったのは、
神田は街が栄え土地や家賃が高くなったが、
一方、本郷は空き地が多かったからだ」
という意味のことが書かれています。

その後、長期間に亘って
本郷東京の中で最も下宿屋の多い地域でした。

これも私どもが本郷を重点的に調べた理由です。














■下宿屋・書生・賄い・女中・・・


さて、下宿屋が、
アパートやマンション、団地など現在の集合住宅と大きく違うのは、
ひとつには、住んでいた多くが、
今でいう学生書生だったことでしょう。

書生は大学生だけではありません。

東京での就学の案内書の多くや下宿屋の案内書には、
大学ばかりでなく、
医学や法学などの専門学校、
現在の教育学部に当たる師範学校、高等学校、中学等も挙げられています。

また、実際には学生でなくても、
故郷の両親には東京の学校に入学すると言って仕送りを受け、
下宿屋には学生と称して入居していた書生も少なくなかった様です。

東京にはいったいどのくらいの書生がいたのか、
正確な把握は難しいのですが、
例えば、当時の文部省の年報を見て計算すると、
明治8年、1875年、東京の学校の学生は、総数約8100人、
これが、明治35年、1902年は約29200人となります。

近代という時代に、学生は急速に数を増やしていったのです。

昭和3年、1928年に東京市が行なった下宿屋を対象とするアンケート調査によると、
下宿屋に住んでいた人のうち学生の占める割合は、
当時の東京15区全体では約63%、
学生相手の下宿屋の多かった本郷区で69%、
神田区で55%、牛込区で75%、
男性の割合は全体で約98%でした。


現在の集合住宅との大きな違いは、
なんといっても、住み込みの女中の存在です。

食事は『賄い』と呼ばれ、下宿屋によって朝夕の二食、朝昼晩の三食、
ひとりひとりの部屋に女中が上げ下げしていました。

今でも旅館などで使われている、『ひとり膳』に、
一人分のご飯茶碗、おかず、味噌汁、
下宿屋によっては、ご飯のお代わり用のおひつ、湯呑茶碗、急須、
これだけ載せたお膳を何人分も重ねて、
女中は2階や3階の部屋にも上げ下げしていたのです。

本郷のある下宿屋では、
上の階は経験の浅い女中、下の階は経験の長い女中
と担当を分けていたそうです。

新聞や郵便も女中が部屋に届けます。
電話の取次ぎもします。

女中に幾らか渡せば靴を磨いてくれる下宿屋もありました。

手を叩いたり、呼び鈴で女中を呼び、
お茶やお菓子、ビールや酒の肴も部屋まで持ってきてもらう。

希望のお菓子がなければ、
また文房具なども、
代金と手数料を払って買いに行ってもらう。

友人などを招いた時は、
お茶やお菓子はもちろん、
客膳』と呼ばれた来客用の食事を頼む。

暖房用の炭や照明用の油も、
下宿人各自が店で買ってくるのではなく、
下宿屋から買い、
部屋代や食事代と一緒に払っていました。

入浴については、
昭和3年、1928年に東京市が行った調査によると、
風呂のあった下宿屋は、
当時の東京15区全体では約25%、
本郷区で35%、神田区で40%でした。

女中は休む間もなかったからでしょうか、
ある下宿屋では女中への申しつけは夜10時までに限られていました。
下宿人の中には女中にチップを渡す者もありました。


こんな具合ですから、
下宿屋では座ったまま何でもできるのだ」と書かれている本もありました。

おのずと生活が乱れることもあったのでしょう。
気楽な下宿屋に住み、夜は、部屋では酒を飲んで大きな声で歌を歌い、
学友と連れだって街に繰り出し、
牛鍋屋寄席遊郭で遊んでいたのです。

今でしたらワンルームマンションを根城に、
カラオケ、映画、コンサートにデート、といったところでしょうか。


学生風紀問題』という本には、
学生の風紀が乱れる一番の原因は下宿屋だと書かれています。

下宿屋の改良』と題された新聞記事は、
世の中には改善すべきことが多いが、
なかでも下宿屋の改良が重要だ、としています。

他にも、いくつもの本に、
下宿屋

「堕落の根源」、
学生の堕落機関」、
学生を腐敗させる魔の洞窟」、
「悪い書生の巣窟」、
「罪悪の養成所」

などと書かれています。

が、下宿人たちは、
下宿屋という住まいで身辺のことに煩わされることなく、
都市での生活を満喫していたとも言えるのではないでしょうか。












■下宿屋・紳士録・奥井館・・・


一方、下宿屋が、下宿人に至れりつくせりだったのは、
それが利益となるからです。

食べ物、飲み物、買い物等、いずれも、
原価にいくらか上乗せして請求するのです。

資産家による下宿屋経営、
下宿屋で得た収益で田畑や貸家を買った例もあります。

下宿屋の経営者の中には、大きな収益をあげ、
日本紳士録』に納税額が記載され政財界人とともに名を連ねた人もいました。


本郷の『奥井館』という下宿屋は、
日本橋での商売を止め、
本郷に約4000坪、約1300平方メートルもの土地を買い、
下宿屋や貸家を始めたそうです。

現在の岡山県備中岡田藩藩主、伊東家の武家屋敷だった土地です。

毎年春には屋敷の庭に楽隊や縁日を出し、
親戚や知人、出入りの商人を集めて祭をし、
近所の人達から『奥井さんのお祭』と呼ばれたそうです。

ちなみに『奥井館』の二代目主人の子、奥井復太郎は、
のちに都市社会学の研究者として知られ、
慶応大学の塾長を務め、
現在も日本都市学会の通称『奥井賞』にその名を留めている人物です。

奥井復太郎が活躍した時代、
アメリカのある都市社会学者はホテル住まいについて研究し本を書いていますが、
奥井復太郎は、残念なことに下宿屋を研究したことはなかったようです。

また、今も木造3階建ての建物が建造された時の外観をほぼとどめている
本郷館』を建てたのも、
代々、造り酒屋兼庄屋という家柄で
明治に入ってからは北海道での石油や石炭の採掘事業なども手掛けた一族です。

後に『本郷館』を下宿屋として継承した方も、
買い取った時こそ親族の支援が必要だったそうですが、
経営が軌道に乗ると、その利益で田畑や貸家を買ったそうです。

後程、写真をご覧いただく『泰明館』も、岩手の銀行家一族が創業者で、
ご主人の使っていた座敷には格式の感じられる床の間や違い棚、欄間がありました。
当時からの屏風や香炉を拝見させていただいたこともあります。

本郷館』と『泰明館』も、『奥井館』同様、敷地は元武家屋敷で、
現在の愛知県、三河岡崎藩藩主、本多家の所有地でした。

本郷下宿屋で、『日本紳士録』に載っているのが今のところ確認できているのは、
約20軒、その経営者約30人で、
最初にも触れました、こちら『朝陽館』さん、
そして『奥井館』、『本郷館』、現在本郷唯一の賄い付下宿屋『北辰館』も載っています。
奥井館』、『北辰館』などのご主人は、本郷区区議会議員も務めていました。
成功した下宿屋の家庭は教育熱心でもあったようで、
下宿屋のこども達の中には、
小学校は公立ながらも名門とされた誠之小学校に越境入学、
大学は東大や京大、早稲田、慶応に学んだ方も少なくなく、
女性が大学に進学することの少なかった時代に日本女子大を卒業した方もいました。

 どの下宿屋も営利本位だったわけではないでしょうが、
当時のいくつもの本に下宿屋

「貪欲」
「荒涼」
「利益が第一の目的」
「愛情がなく冷ややか」
「親切でもなく人情もない」
「父や母の愛、きょうだいの温かい情もない」

などとも記されています。

下宿人同士の関係も

「異分子の寄り合いなので交流ははなはだ疎遠」
「隣の下宿人とは目だけの付き合い、言葉を交わすこともない」

といった具合です。

こうした、下宿屋の営利性、希薄な人間関係にも、
近代都市ならではの、個人主義、個人の匿名性をうかがうことができると思います。


下宿屋が、東京という近代都市を特徴づける存在であったことは、
下宿屋を取り締まる警察の規則が制定された経緯にも認められると思います。
明治19年、1886年、内務省から、
街路、乗合馬車人力車、そして下宿屋などを取り締まる規則のひな形が、
全国の各府県に示され、
これを受け、翌年の明治20年、1887年に東京でも、
警察が下宿屋などの規則、『宿屋営業取締規則』を定めたのです。

街路や乗合馬車人力車と同時に、近代都市に急速に数を増したものとして、
社会的ルールが必要とされるようになったということではないでしょうか。












■下宿屋・旅館・宿屋営業取締規則・旅館業法・・・

さて、先程お話した、下宿屋での生活を思い出していただけるでしょうか。

布団の上げ下ろし、食事の一人膳での上げ下げ、
用命を受けて部屋に運ばれるお茶やお菓子、お酒。

お客に対する、従業員による、こうしたサービスは、
今も旅館で行われているのは、皆さんご存じの通りです。
それでは、なぜ、下宿屋旅館には共通性があるのか、
それは、下宿屋旅館が歴史を共有しているからなのです。

そもそも、人を住まわせ、食事を出すことが警察から許されていたのは、
明治の初期まで、旅館だけでした。
後に、下宿屋にも認められますが、
その後も旅館には下宿人が住んでいました。

この意味で、下宿屋の起源は旅館、そう私は考えています。

下宿屋にも下宿人だけではなく、宿泊者もいました。

例えば、博覧会見物の客や、東京の病院に通院する人、
地方の代議士や政治活動で国会会期中に東京に滞在する人、です。

明治時代上野公園での博覧会を控え、遠方からの見物客の宿泊に、
寺や下宿屋の経営者約300人が一同に会し
料金やお客の対応などを話しあったそうです。

ある下宿屋のガイドブックを見ると、
何軒かの本郷下宿屋は、場所や料金などの他、「病院」という項目を設け、
東大の大学病院入院、通院のための宿泊に便利と書かれています。

下宿屋に住んでいる下宿人も、
まるで宿泊客の様に
「泊っていたお客さん」「宿泊者」「宿泊人」と言われることもありました。

下宿屋旅館の兼業も多く、
当時の職業別電話帳や旅館のガイドブックには、
兼業であるのが分かる様、印が付けられています。

また、警察の統計には、
下宿屋旅館、それぞれの軒数と合わせ、兼業の軒数も載っています。

旅館下宿屋になった例、下宿屋旅館になった例もあります。

本郷では、第二次世界大戦後、
朝陽館』さんはじめ多くの下宿屋
主に修学旅行の団体を得意客とする旅館へと転業、
下宿屋街本郷は、旅館街本郷へと変わっていきました。

法律や自治体の規則においても、
先程触れた『宿屋営業取締規則』は、下宿屋旅館、共通の規則で、
明治時代に制定後、昭和23年、1948年まで存続し、
新憲法のもと、現行の『旅館業法』に発展、法制化されたのです。

そのため、下宿屋の法的位置づけは、
現在も、一見縁のないような名の法律、『旅館業法』でなされているのです。


下宿屋は、アパートやマンション、団地などの集合住宅と違って、
居住ではなく、宿泊を第一の目的とする施設、旅館を起源とし、
旅館と密接な関係を持ってきた集合住宅なのです。














■下宿屋・日本の近代・集合住宅・・・


この様に、下宿屋は、
欧米からもたらされた、近代主義を背景とする集合住宅でも、
欧米の集合住宅に倣ったものでもない、
日本近代独自の集合住宅なのです。

また、軒数についても、
同潤会のアパートメントが、
大正15年、1926年から昭和9年、1934年までに総戸数、約2600個、そのうち単身者向けが約650戸、建設されたのに対し、
下宿屋は、先程も触れました、昭和3年、1928年の東京市による調査によれば、
当時の15区全体で客室数は、約6600部屋です。

また、警察が統計を取り始めた明治20年、1887年、
当時の区部全体で約1500軒、
最も軒数の多かった明治40年、1907年には、
現在の23区に相当する範囲で約2300軒、
同潤会アパートの建ち始めた昭和元年、1926年、
おそらくは関東大震災の罹災で約900軒と減少しますが、
その後も、生活様式のいわゆる欧米化近代化が進んだとされる時期も、
軒数は増加し続け、
太平洋戦争開戦直後の昭和17年、1942年、約2100軒を数え、
その後減少に転じます。


下宿屋は、思うに、いわゆる近代化欧米化とは直接の関連がないゆえ、
これまで日本近代史近代建築史の上では、
視線を向けられることがまれだったようですが、

下宿人の生活や人間関係、起源、軒数などから、
日本近代、とりわけ近代都市東京を特徴づける、
日本独自の都市的な集合住宅といえましょう。」


関連書籍等

『貼雑年譜』156-157頁に乱歩経営下宿屋の広告・平面図。
『屋根裏の散歩者』は、下宿屋が舞台。


2009年2月4日水曜日

【 住宅低資融通条件 】

住宅低利資金融通条件の略。
住宅低資金貸付とも。

融通とは融資の意。

以下、読売新聞1919(大正8)年7月13日朝刊2面より。

同様な掲載は、
東京朝日新聞1919(大正8)年7月13日等にもあり。


「一、融資総額は六百万円以内とす

 一、利率は年四分八一厘とし最近発行の形式に依ること

 一、道府県以外の所要額も総て地方費債又は府県債とし
   一旦地方費又は府県に於て融資を受けたる上
   更に群市区町村其他に貸付すること
   但し其貸付利率は日歩八厘を超えざること
   人口四十万以上の都市は
   人口の例に依らず自ら債券を発行することを得

 一、個人に対する貸付は
   地方費又は府県より群市区町村に貸付
   群市区町村に於て更に貸付を為す場合とを問わず
   成るべく組合を設けしめ組合員の連帯責任とすること

 一、本起債の償還年限は成るべく短縮し
    最長廿ヶ年を超過せざること

 一、元金及利子の支払期日が三月及九月とすること」

   以上


関連書籍等

『同潤会基礎資料』各巻内容はこちら
『団地日和』にはドラマ仕立て公団PR映像も。
『大いなる幻影』は同潤会大塚女子アパートが舞台。
『戦前期社会事業史料集成4』は(辛亥救災会含む)M43~T11の国内社会事業等の一覧(詳細はこちら
『戦前期社会事業史料集成9』は(大阪初の公営住宅等も掲載の)『日本社会事業名鑑』(T9)の復刻。