2009年12月28日月曜日

【 上野倶楽部外観写真・佐藤別館平面図 掲載文献 】


月刊誌『住居』昭和10(1935)年1月号 「アパート特集」
(発行:住居社 所蔵図書館みつからず)



< 当該写真・平面図 再掲文献 >

(雑誌記事) 橋爪紳也『紙屑のモダニズム 連載69 アパート経営 虎の巻(上)』
(『彷書月刊』2008年4月号(通巻270号))


< 当該写真 再掲文献 >

住宅総合研究財団『現代住宅研究の変遷と展望』p56(2009年)

全体の目次へ

関連書籍等
『宇野浩二全集』の小説『人に問われる』には木造5階建て上野倶楽部描写。
『ホテルライフ』にはアメリカのホテル住まいの歴史等
『ドイツの労働者住宅』にはファミーリエンホイザー(1820~24竣工 5層150戸)やマイアースホーフ(1873~74建造 7棟257戸)の図面等も。
『C階段』『みんなのしあわせ』はフランス・スペインの階段室型集合住宅が舞台。


【本郷、下宿屋ものがたり】目次等

所蔵公共図書館

文京区立真砂中央 県立岐阜 大垣市立 の 各図書館等


目 次

【 学生のまち、本郷のはじまり 】

【 博士21人、巣立った下宿屋 】

【 岐阜から来て下宿屋を始めた人たち 】

【 若い学者と若い詩人の下宿屋暮らし 】

【 明治、大正、昭和、平成 】





 
関連書籍

『集合住宅物語』には、本郷の元下宿屋・現旅館、鳳明館も。
『東京生活 no.11』には、本郷の現役下宿屋「暁秀館」記事。
『ローマ字日記』には、本郷の下宿屋(現旅館、太栄館)で書かれた所も。
『本郷菊富士ホテル』は、文人らが集い住んだ本郷の高等下宿。
『鬼の宿帖』は、同ホテル創業者子息の回想。
『菊坂ホテル』『鬼の栖』は、同ホテルがモデルの漫画・小説。
『男どアホウ甲子園』には、作者水島新司もいた、本郷の下宿屋泰明館が(20巻178・204頁 21巻72・82・90・186頁 25巻118頁に看板 22巻142頁に玄関外観)。







2009年12月14日月曜日

【東京市の公設長屋の配置図2】



「建築雑誌」第391号大正8(1919)年7月より



参考小冊子 【レンガの長屋 玉姫御殿】


 
関連書籍等

『同潤会基礎資料』各巻内容はこちら
『団地日和』にはドラマ仕立て公団PR映像も。
『大いなる幻影』は同潤会大塚女子アパートが舞台。
『戦前期社会事業史料集成4』は(辛亥救災会含む)M43~T11の国内社会事業等の一覧(詳細はこちら
『戦前期社会事業史料集成9』は(大阪初の公営住宅等も掲載の)『日本社会事業名鑑』(T9)の復刻。






【東京市の公設長屋の配置図1】


「浅草区誌」大正3(1914)年より



参考小冊子 【レンガの長屋 玉姫御殿】


 
関連書籍等

『同潤会基礎資料』各巻内容はこちら
『団地日和』にはドラマ仕立て公団PR映像も。
『大いなる幻影』は同潤会大塚女子アパートが舞台。
『戦前期社会事業史料集成4』は(辛亥救災会含む)M43~T11の国内社会事業等の一覧(詳細はこちら
『戦前期社会事業史料集成9』は(大阪初の公営住宅等も掲載の)『日本社会事業名鑑』(T9)の復刻。





写真【東京市の公設長屋 第5・6号棟】





「中央新聞」明治44(1911)年11月21日夕刊2面より



参考小冊子 【レンガの長屋 玉姫御殿】



関連書籍等

『同潤会基礎資料』各巻内容はこちら
『団地日和』にはドラマ仕立て公団PR映像も。
『大いなる幻影』は同潤会大塚女子アパートが舞台。
『戦前期社会事業史料集成4』は(辛亥救災会含む)M43~T11の国内社会事業等の一覧(詳細はこちら
『戦前期社会事業史料集成9』は(大阪初の公営住宅等も掲載の)『日本社会事業名鑑』(T9)の復刻。





写真【東京市の公設長屋 託児所と長屋】


「東京朝日新聞」明治44(1911)年9月26日5面より


参考小冊子 【レンガの長屋 玉姫御殿】

関連書籍等

『同潤会基礎資料』各巻内容はこちら
『団地日和』にはドラマ仕立て公団PR映像も。
『大いなる幻影』は同潤会大塚女子アパートが舞台。
『戦前期社会事業史料集成4』は(辛亥救災会含む)M43~T11の国内社会事業等の一覧(詳細はこちら
『戦前期社会事業史料集成9』は(大阪初の公営住宅等も掲載の)『日本社会事業名鑑』(T9)の復刻。









国会図書館にない基礎史料



明治時代の東京の電話帳

『明治三十七年四月改 電話番号簿 東京郵便局』 逓信博物館図書室蔵 複写不可
『明治三十九年四月改 同上』 東京都立中央図書館蔵
『明治四十一年七月改 同上』 逓信博
『明治四十二年六月改 同上』 都立中央
『明治四十三年十月改 改』 都立中央

東京区部の古い住宅地図(戦前1930年代・戦後50年代)

『火災保険特殊地図 旧35区シリーズ』(都市製図社より1987年に復刻)
参考:国会図書館ウェブサイトでの解説

都立中央図書館で全巻所蔵。
都内各区立図書館で、相当区域の巻を所蔵。
(『東京都公立図書館住宅地図総合目録』で所蔵確認可)


『横浜貿易新報』(『神奈川新聞』の前身)の、
原本原寸コピー
(マイクロフィルムではありません。1ヶ月分ずつ製本)

神奈川県立図書館蔵        M31.4.1~S16.12.31

書庫ではなく、閲覧室の棚にあり、自由に読めます。


『共同住宅及ビルディングに関する調査』 概要等

『共同住宅及びビルディングに関する調査』
東京市社会局 大正12(1923)年

復刻版
『日本近代都市社会調査資料集成1
東京市社会局調査報告書 5』平成7(1995)年

復刻版所蔵公共図書館
東京・大阪・兵庫・千葉等の各都府県立


概要


【 上野倶楽部 
(M43 木造5階)の解説
原著p29~31(復刻版p73~75)

 佐藤別館 
(M43頃 洋風木造3階)の解説
同p31~34(p75~78)

【 三笠ハウス 
(T2 木造3階 映画館転用)の解説
同p32~34(p76~78)

【 芸術倶楽部 
(T8に共同住宅に転用 洋風 木造3階)の解説
同p34(p78)

【 櫻楓会アパートメントハウス 
(T10 木造3階 日本女子大卒業生等居住)の解説・2階平面図
同p34~36(p78~82)

【 新宿アパートメントハウス 
(T10 木造3階)の解説・2階3階平面図
同p36~37(p82~85)

【 東京市営古石場共同住宅 
(当該書発行時工事中 コンクリートブロック造 3階)の解説・配置図・正面立面図・平面図
同p39~41(p87~93)





関連書籍等
『宇野浩二全集』の小説『人に問われる』には木造5階建て上野倶楽部描写。
『ホテルライフ』にはアメリカのホテル住まいの歴史等
『ドイツの労働者住宅』にはファミーリエンホイザー(1820~24竣工 5層150戸)やマイアースホーフ(1873~74建造 7棟257戸)の図面等も。
『C階段』『みんなのしあわせ』はフランス・スペインの階段室型集合住宅が舞台。


「明治の団地 浅草玉姫町東京市公設長屋」補遺


4章p84 訂正・追加

「共同浴室は石造で、長屋用、労働者用すなわち合宿所用、事務員用に分かれ」ている(注118)、などと書かれています。
  ↓
「共同浴室は石造で、長屋用、労働者用すなわち合宿所用、事務員用に分かれ」ている(注118)、「隔日開場」(注116)などと書かれています。


4章p89 追加

建造の翌年、明治45(1912)年6月のある新聞記事には、
「現在は駄菓子屋、八百屋、豆屋、床屋、貸布団屋、氷屋の六戸が開店していて、
一戸は空家」とあります(注116)。


4章p89 訂正・追加

「この他、「巡査宿泊所2戸」も、あったようです(注137)」
 ↓
「この他、「巡査宿泊所2戸」(注137)や「作事場」もあったようです。
「作事場」では、輸出向けの人形やおもちゃの動物などを作っていたようです(注116)」

4章p91 追加

「明治45(1912)年の『東京毎日新聞』には、
『昨今の公設長屋』という連載記事が載り、
東京市の公設長屋。特殊小学校後援会の玉姫長屋・橋場長屋について
書かれました(注116)」


4章p95 訂正・追加

「別の新聞記事によると、
玉姫長屋の浴場は、住人の「希望者が請負」い、
夫が「三助をして、妻」が「番台に座」わり、「隔日に」営業されていたそうです(注116)」

「作業場では、おもちゃの「刀」などを作っていました(注116)」

「橋場長屋については、どんな建物だったのか、どんな施設、設備があったのか、
まったく分かりません」
   ↓
「橋場長屋は、ある新聞記事によると、
各住戸、「五畳半」の部屋、
畳半分の大きさの押入れ、一畳の広さの「炊事場」、畳半分の「土間」、「便所」と「空地」という間取りで、
「電灯」と「水道」もあり、
1棟に5戸、全体で6棟30戸、
浴場などは無かったようです(注116)」


5章p102 追加

「ちなみにこの時の救済事業調査会の委員21人(注14)のうち、
9人は社会政策学会という学会の会員でした(注15)。 
社会政策学会は、4章に書きましたが、大正2(1913)年、有志が「玉姫町の貸長屋」を見学しています。
救済事業調査会の委員で、見学に参加した人がいたかもしれません」

5章p103 追加

「10月16日、新聞に救済事業調査会の委員の話が載り、
「辛亥救済会の公設長屋も常に満員で結果がなかなか好いそうである」とあります(注16)。
救済事業調査会には玉姫町に東京市が建てた公設長屋のことを知っている委員がいたのです。」


注 訂正・追加

4章 (147) 『社会政策学会論叢 第七冊 「労働争議」』
大正3(1914)年(復刻版 『社会政策学会史料集成 第7巻』 昭和52(1977)年)

(161)『東京毎日新聞』明治45(1912)年6月29日・7月1・2・3日
(神戸大学電子図書館システムで閲覧可)

5章 (14) 『讀賣新聞』大正7(1918)年6月26日朝刊3面

(15) 『社会政策学会論叢 第十一』巻末の「大正七年六月現在 社会政策学会々員名簿」 大正7(1918)年
(復刻版 『社会政策学会史料集成 第11巻 昭和52(1977)年)

(16) 『讀賣新聞』大正7(1918)年10月16日朝刊5面



参考小冊子 【レンガの長屋 玉姫御殿】


2009年11月2日月曜日

補遺 岐阜出身特定下宿屋経営者追加 

高橋幹夫『「日本紳士録」掲載下宿屋等一覧
List of geshukuyaowners,Tokyo,1889-1944 from Japan Who's Who』に掲載している下宿屋経営者のうち、

以下、その後の調査で、新たに、岐阜出身と特定されました。

高橋幹夫

8頁 本郷Ⅲ 千代田館 水谷先次郎 水谷吉平 水谷藤吉

※『岐阜縣郷友会会員名簿』
 (『岐阜縣郷友会会報 昭和六年十二月』(岐阜県立図書館所蔵)巻末)等による)


12頁 神田Ⅰ三崎館 春田安太郎 春田満二

※『岐阜縣郷友会会員名簿』
(『岐阜縣郷友会会報 大正十五年十二月一日現在』(岐阜県立図書館所蔵))による)


18頁 牛込・早稲田・淀橋・戸塚(下宿屋名不明) 星田清次郎

※『岐阜縣郷友会会員名簿』
(『岐阜縣郷友会会報 大正十五年十二月一日現在』(岐阜県立図書館所蔵))等による)

関連書籍

『集合住宅物語』には、本郷の元下宿屋・現旅館、鳳明館も。
『東京生活 no.11』には、本郷の現役下宿屋「暁秀館」記事。
『ローマ字日記』には、本郷の下宿屋(現旅館、太栄館)で書かれた所も。
『本郷菊富士ホテル』は、文人らが集い住んだ本郷の高等下宿。
『鬼の宿帖』は、同ホテル創業者子息の回想。
『菊坂ホテル』『鬼の栖』は、同ホテルがモデルの漫画・小説。
『男どアホウ甲子園』には、作者水島新司もいた、本郷の下宿屋泰明館が(20巻178・204頁 21巻72・82・90・186頁 25巻118頁に看板 22巻142頁に玄関外観)。







正誤表 高橋幹夫『明治の団地 浅草玉姫町東京市公設長屋 The First Public Housing in Tokyo』


以下、誤りがありました。お詫びいたします。 高橋幹夫


4章 54頁 「収支報告と市長あいさつ」2行目

×「4月6日に締め切り」
    ↓
○「4月16日に締め切り」  
※読者の方からご指摘いただきました。ありがとうございます。

4章 「託児所」

86頁9行目 
×「託児場」がある(122)」 
             ↓      
○「託児場」がある(121)」

87頁4行目 
×「そのままになってしまった(124)」
                   ↓      
○「そのままになってしまった(123)」

87頁6行目 
×「「板張り」で(124)」             
           ↓      
○「「板張り」で(125)」


 
3章112頁(6)(13)・120頁(99)・121頁(127)・125頁(12)

×『日本任代都市社会調査資料集成1 東京市社会局調査報告書1』
     ↓
○『日本近代都市社会調査資料集成1 東京市社会局調査報告書1』



参考小冊子 【レンガの長屋 玉姫御殿】


正誤表 高橋幹夫『下宿屋という近代 Geshukuya,A Modern Age Tokyo』

以下、誤りがありました。お詫びいたします。 高橋幹夫

2章 53頁10行目
×「啄木は追い掛けたのですが追い着きませんでした」
       ↓
○「啄木は女中さんに追い掛けてもらったのですが追い着きませんでした」

注 121頁(8)
×「堀江亨・松山馨・高橋幹夫『日本の近現代における都市集住形態としての下宿屋の実証研究』」        
          ↓
○「堀江亨・松山薫・高橋幹夫『日本の近現代における都市集住形態としての下宿屋の実証研究』」


関連書籍等

『貼雑年譜』156-157頁に乱歩経営下宿屋の広告・平面図。
『屋根裏の散歩者』は、下宿屋が舞台。

2009年10月30日金曜日

「下宿」(『日本百科大辞典』(明治43(1910)年)より)

「げしゅく(下宿)

宿屋営業の一。

1ヶ月分の食料・座敷料等を定めて
人を寄宿せしむるものにして、
炭油費その他諸器具は寄宿者自身の支弁なるを普通とす。

明治28年3月警視庁令第2号宿屋営業取締規則によれば、
東京府下にては、
下宿屋の出入口は便利にして、かつ危害なき設備をなし、
客室の構造は
十分光線を取り空気を融通せしむるに適当なる装置を
なさざるべからず。

客室の境界は壁・襖・板戸を用い、
押入又は戸棚を設け、
各室堅固にして鍵を個にせる錠前を附することを要す。

2階又は3階を設くるときは、
その房室の坪数15坪以上のものは
幅員3尺以上の階子2箇以上を設くべく、

便所は各2箇以上(客室の坪数10坪以上なるときは1箇)を
臭気の客室に及ばざる所に設け、
日々清潔に掃除せざるべからず。

営業者は下宿・転宿又は出発したる者ある毎に
24時間以内に届書を
所轄警察署・警察分署・巡査派出所もしくは巡査駐在所に差出し、
1通に検印を受け、これを編綴して保存するを要す。

下宿人外泊3日におよび、その所在不分明なるときは、
24時間以内に
所轄警察署・警察分署・巡査派出所もしくは巡査駐在所に
届出でざるべからず。」



関連書籍等

『貼雑年譜』156-157頁に乱歩経営下宿屋の広告・平面図。
『屋根裏の散歩者』は、下宿屋が舞台。


本郷館の存続方法(参考 高橋幹夫『下宿屋本郷館の生活実態』奥付より

「国内外の篤志家に買取ってもらうとか、

所有者には同等の不動産価値の遊休公有地を提供して、自治体の所有とする、
そのために景観法を活用するとか、

フィルム・コミッションによる収益の具体的試算をするとか、

建造者の出身地、岐阜の自治体や、
同じ岐阜出身者が創業した本郷の旅館との連携を検討するとか、

自治体の審議会で協議してもらうとか、

仮想空間にも建てて、その賃貸収益で存続を図るとか、

そんな考えとは全く無縁に日々は過ぎていく・・・」


本ウェブログ関連ページ

講演再録「本郷館を生きた人々 林芙美子をめぐって とんかつ・うなぎ・カチューシャの唄」

『日本の近現代における都市集住形態としての下宿屋の実証研究
―東京・本郷・本郷館をケーススタディとして―』目次等


【西美濃が産んだ東京本郷旅館下宿屋街 続編】

本郷館居住暦確認著名者

本郷館 立ち退き・取り壊し裁判日程等

本郷館 東京女高師寮時代 寄宿者自伝的小説抜粋




参考小冊子


【本郷館の半世紀】

【下宿屋本郷館の生活実態】

【The 20th Century of Hongoh=kan,a neighbor of Tokyo University】


本郷館関連団体ウェブサイト

「本郷館を考える会」オフィシャルサイト







 
本郷館関連書籍

【 いのちのうた 上巻 】お茶大寮時代の描写あり 
【 花より男子 18巻 】外観1コマあり 
【 Tokyo Style 】 写真 外観1点+中庭見下1点+室内(5室)17点 
【 求道学舎再生 】お隣の求道学舎


2009年7月29日水曜日

本郷館 立ち退き・取り壊し裁判 判決日程等

本郷館 立ち退き・取り壊し裁判・保存に向けた動向等


2009年、東京地方裁判所の判決、

2010年、東京高等裁判所の判決、
多くの住人は、和解・8月末に退去、
他の住人は、最高裁判所への上告が11月に棄却、
関係各所へ存続のための働きかけ中、

2011年4月11日には、最終的な退去を迫られるという。


本ウェブログ関連頁

講演再録「本郷館を生きた人々 林芙美子をめぐって とんかつ・うなぎ・カチューシャの唄」

『日本の近現代における都市集住形態としての下宿屋の実証研究
―東京・本郷・本郷館をケーススタディとして―』目次等


【西美濃が産んだ東京本郷旅館下宿屋街 続編】

本郷館の著名旧住人

本郷館の存続方法(参考)

本郷館 東京女高師寮時代 寄宿者自伝的小説抜粋




参考小冊子

【本郷館の半世紀】

【下宿屋本郷館の生活実態】

【The 20th Century of Hongoh=kan,a neighbor of Tokyo University】


本郷館関連団体ウェブサイト

「本郷館を考える会」オフィシャルサイト








本郷館関連書籍


【 いのちのうた 上巻 】お茶大寮時代の描写あり 
【 花より男子 18巻 】外観1コマあり 
【 Tokyo Style 】 写真 外観1点+中庭見下1点+室内(5室)17点 
【 求道学舎再生 】お隣の求道学舎


2009年7月27日月曜日

「公設住宅」「公営住宅」「公益住宅」という語の大正・昭和初期の用例

「公設住宅」「公営住宅」「公益住宅」という言葉を使っている、大正・昭和初期の文献の例として、以下が確認できる。

「公設住宅」は、下記のT9,S2②,S12②
「公営住宅」は、同、T14,S2①,S2②,S3,S5,S8,S11①,S12③,S17
「公益住宅」は、同、S9,S11①,S11②,S12①,S13,S16

に、用例がある。


発行元別・文献別に、使用されている言葉を追うと、

内務省社会局

T11では、「小住宅供給」という表現はあるものの、「公設住宅」「公営住宅」「公益住宅」いずれも使われていない。
S2では、愛知県の4つの「~町公営住宅」と、山梨県の「甲府市公設住宅」が掲載されている。
S3では、「公営住宅」という表現が使われている。

『日本都市年鑑』

S6では、  「市営住宅」という表現はあるものの、
       「公設住宅」「公営住宅」「公益住宅」いずれも使われていない。
S11①では、「公益住宅」、
S11②では、「公益住宅」と「公営住宅」の両方、
S12,S13,S16では、      「公益住宅」、
S17では、「公営住宅」が、使われている。
S18では、「市営住宅」という表現はあるものの、
      「公設住宅」「公営住宅」「公益住宅」いずれも使われていない。


T9①  大原社会問題研究所 『日本社会事業年鑑』
T9②  東京市社会局 『東京社会事業名鑑』
T11  内務省社会局 『社会事業要覧』
T14  『愛知県社会事業年鑑』
S2① 『三重県社会事業概要』
S2②  内務省社会局 『社会事業一覧』
S3    内務省社会局 『社会事業統計要覧』
S5   『岡山県社会事業要覧』
S6   『日本都市年鑑』   
S11① 『日本都市年鑑』
S11② 『日本都市年鑑』
S12① 『日本都市年鑑』
S12② 『西宮市社会事業要覧』
S12③ 『宮崎県社会事業要覧』
S13  『日本都市年鑑』
S16  『日本都市年鑑』
S17  『日本都市年鑑』
S18  『日本都市年鑑』


関連書籍等

『同潤会基礎資料』各巻内容はこちら
『団地日和』にはドラマ仕立て公団PR映像も。
『大いなる幻影』は同潤会大塚女子アパートが舞台。
『戦前期社会事業史料集成4』は(辛亥救災会含む)M43~T11の国内社会事業等の一覧(詳細はこちら
『戦前期社会事業史料集成9』は(大阪初の公営住宅等も掲載の)『日本社会事業名鑑』(T9)の復刻。






2009年6月9日火曜日

 大正時代公営住宅制度歴史概略

(高橋幹夫「明治の団地 浅草玉姫町東京市公設長屋」5章より抜粋)




「大正7(1918)年、6月24日、
内務大臣のもと、救済事業調査会という審議会が発足しました。

この年、米の値段の高騰に、
日本各地で、庶民が値下げを訴えたり、鎮圧のために軍隊が出動した、
米騒動が起きました。
7月28日に
富山県で始まり、都市に限らず、全国に広まり、9月半ばまで続きました。

8月28日、
大阪市では、庶民の生活のため、それまでの米の安売りの他、
募金を集めて貸長屋などを作ろう、ということになり、
9月8日から、
新聞での募金の呼び掛けが始まったことは、3章に書きました。

9月21日、
救済事業調査会に、庶民の住宅について検討するための、たたき台、
『細民住宅改良要綱』が、内務大臣の名前で示されました。

12の項目には、「細民住宅建築のための」「公共団体の起債を認め、
低利資金の融通を図ること」というものも含まれていました。


同じ9月21日、
寺内正毅内閣は、総辞職に追い込まれました。

寺内正毅は、華族で、軍人出身、
その夫人が、浅草の大火の際、中央新聞に10円寄付した人であることは、4章で触れました。

『細民住宅改良要綱』も、寺内内閣の内務大臣にとって、最後の仕事のひとつになりました。

替わって、総理大臣となったのは、
東京市特殊小学校後援会の玉姫長屋の建設を主導した、
立憲政友会の、原敬、でした。

原敬は、内務大臣や文部大臣などの経験もありました。
爵位を拒み続けたので、「平民宰相」と呼ばれるようにもなりました。
原敬は、大火の際、募金が始まるとすぐに、30円を出していました。


11月5日、
救済事業調査会は、新しい内務大臣宛てに、
『小住宅改良要綱』を答申しました。

たたき台に対する委員の意見、
例えば、
「細民」という表現は避けた方がよい、
「細民住宅」という言い方は、「庶民住宅」にした方がよい、
などを踏まえて改訂、答申されました。

先程の項目も少し変わって、
「住宅建築および用地買入れ、その他、必要ある場合においては、
公共団体の起債を認め、および、低利資金の融通を図ること」、となりました」


「大正8(1919)年、5月、
横浜でも、大火をきっかけに、久保山住宅をつくることになったことや、
6月には、
大阪市の築港住宅と櫻宮住宅ができたことも、3章に書きました。

6月21日には、
内務省が、道府県知事に対し、「住宅改良助成」についての通知を出しました。


『小住宅改良要綱』を踏まえたと思われる、
『住宅改良助成通牒要綱』という形にまとめられていて、
「二.住宅建築および用地買入れ、その他、必要のある場合においては、
公共団体の起債を認めること」という項目もありました。

内務省は、道府県や市町村が住宅をつくるための資金を得るための具体的な方法を決め、
新聞などにも掲載されました。

道府県や「人口40万人以上の都市」が住宅をつくるために起債し、

それに対して、郵便貯金などを扱う大蔵省預金部から、内務省を通して資金を供給すること、

「郡市区町村」には「府県」を通して、
個人や組合には、「府県より直接」、あるいは、「郡市区町村」を通して、
貸付を行なうことをはじめ、

金利などが示されました。

主に住宅に対し、低金利で資金を融資したので、「住宅低利資金融通」などと呼ばれていました」


「この年、大正8(1919)年12月には、

東京府慈善協会が、
「日暮里町金杉に小住宅41戸、商店式家屋6戸、公益質屋、日用品廉価供給所、共同浴場」を
「建設」しました。

翌、大正9(1920)年、
公的な住宅は、日本各地に広がったようです。

昭和2(1927)年に内務省が発行した
『社会事業一覧』に載っている、「経済供給事業」という表で、
「設立年月」が、大正9(1920)年のところを挙げると、

6月、京都府「伏見町営家屋」「新町10」戸「菊屋32」戸、

8月、「前橋市営住宅」「94」戸、

9月、「和歌山市営住宅」「75」戸、
「佐賀市営住宅」「44」戸、
「熊本市営中坪井町住宅」「30」戸、

10月、「名古屋市新出来町住宅」「19」戸、
「京都市新町頭市営住宅」「甲8」戸「乙38」戸「丙66」戸、

11月、京都府「新舞鶴町 浜住宅」「27」戸、同「新舞鶴町 北吸住宅」「14」戸

などとなっています。

原敬は、首相をしていた間も、
大火の時に建てられた長屋のことを忘れてはいなかったと思いますが、
自分の政権下で行なわれるようになった、公的住宅への融資制度を、
どんな思い、どんな目でみていたのか、それは分かりません。

制度開始間もない、大正10(1921)年11月4日、
原敬は、暗殺されました。

制度は、その後も続きます。


昭和2(1927)年、
内務省発行の『第六回社会事業統計要覧』には、
「大正9年度」から「大正13年度」までの、
「住宅低利資金融通額および同資金による住宅建設戸数」という表があり、

年度別、道府県別に、住宅低利資金の金額と、それによる住宅戸数が分かります。


概略を記せば、

大正 9(1920)年度、
25道府県、2650戸、

大正10(1921)年度、
41道府県(千葉・茨城・静岡・山梨・香川・沖縄を除く道府県)、4353戸、

大正11(1922)年度、
41道府県(新潟、千葉、奈良、静岡、岩手、徳島を除く道府県)、4001戸、

大正12(1923)年度、
沖縄を除く46道府県、5704戸、

大正13(1924)年度、
沖縄を除く46道府県、5200戸、

となります。


こうして日本に公的住宅が広まった頃、

大正12(1923)年9月、
関東大震災が起き、

翌、大正13(1924)年、
震災復興のため、住宅供給などを目的に、同潤会が、設立されました。


明治44(1911)年、
浅草の大火の際に、大きな政党もかかわって、東京市が長屋を建ててから10数年、

米騒動という経済的社会的混乱がきっかけで公的な住宅をつくることになったり、

その大きな政党の、原敬が首相となったり、

公的住宅建設に対する国の融資制度ができたり、

日本の住宅の歴史に色々なことのあった月日でした」


参考小冊子 【レンガの長屋 玉姫御殿】



関連書籍等

『同潤会基礎資料』各巻内容はこちら
『団地日和』にはドラマ仕立て公団PR映像も。
『大いなる幻影』は同潤会大塚女子アパートが舞台。
『戦前期社会事業史料集成4』は(辛亥救災会含む)M43~T11の国内社会事業等の一覧(詳細はこちら
『戦前期社会事業史料集成9』は(大阪初の公営住宅等も掲載の)『日本社会事業名鑑』(T9)の復刻。






昭和初期市町村別公営住宅統計(昭和7年度末の例)

財団法人東京市政調査会発行『日本都市年鑑』には、
毎年、日本全国(植民地を含む)の市町村ごとの公営住宅の総戸数等が掲載されている。

引用されることの多い
『同潤会十年史』巻末のグラフ「六大都市公営住宅戸数トノ比較」が
「昭和八年三月末現在」であることことを踏まえ、
『日本都市年鑑(昭和九年用)』p240~244に掲載の
「経済的保護事業(昭和7年度末)」の数値を集計し、以下に概略を示した。

なお、『日本都市年鑑(昭和九年用)』の公営住宅に関するデータは、
東京市政調査会から各市町村への「照会に対する各市の回答に依る。
但し×印を附したる市は回答なき為、市勢要覧其の他により記入」とある。
「×印」の他、横須賀市等、空欄となっている市町村もある。

北海道・本州・四国・九州の総数は、89市町、23058戸。
(うち同潤会は6385戸で総数の約27.7%)

総戸数が70戸以上の市町村を列挙すると、順に、

東京市 8405戸(うち同潤会5018戸)
横浜市 3569戸(うち同潤会1367戸)
大阪市 3056戸
名古屋市 806戸
川崎市 440戸
京都市 381戸
長崎市 237戸
神戸市 217戸
金沢市 213戸
八戸市 206戸
福島市 199戸
若松市 175戸
新潟市 171戸
高崎市 169戸
富山市 156戸
浜松市 154戸
下関市 150戸
松山市 149戸
鹿児島市 137戸
四日市市 134戸
岡山市 132戸
盛岡市 126戸
仙台市 116戸
尼崎市 116戸
上田市 107戸
佐世保市 104戸
室蘭市 104戸
甲府市 101戸
戸畑市 100戸
浦和町 97戸
岐阜市 96戸
呉市 92戸
前橋市 92戸
広島市 86戸
水戸市 83戸
今治市 79戸
丸亀市 79戸
小樽市 77戸
和歌山市75戸
松阪市 74戸
高岡市 73戸
奈良市 71戸
堺市 70戸


関連書籍等

『同潤会基礎資料』各巻内容はこちら
『団地日和』にはドラマ仕立て公団PR映像も。
『大いなる幻影』は同潤会大塚女子アパートが舞台。
『戦前期社会事業史料集成4』は(辛亥救災会含む)M43~T11の国内社会事業等の一覧(詳細はこちら
『戦前期社会事業史料集成9』は(大阪初の公営住宅等も掲載の)『日本社会事業名鑑』(T9)の復刻。






2009年3月11日水曜日

【 西美濃が産んだ、東京本郷旅館下宿屋街 続編 】

(雑誌『西美濃わが街』第301号 2002年6月発行 掲載記事)



本郷旅館下宿屋街を作ったのは
西美濃の方々であると紹介されたのは
『西美濃わが街』第75号(昭和58年8月発行)である。


明治38年に建造と伝えられる
木造3階建ての下宿屋「本郷館」に住む私達は、
本郷で西美濃出身の方とふたつの接点を経て、
山田賢二先生のこの記事の存在を知った。

発端は(メンバーの多くが)住んでいながらも誰も何も分からない
本郷館」の歴史を知りたいという思いだった。


本郷には下宿屋が数軒、旅館が多数ある。
この街としての特徴に何か手掛かりがありはしないか、
そう考え、旅館のひとつ「鳳明館」に1泊してみた。

廊下の壁に「鳳明館」を紹介した雑誌記事が幾つも掲示されていた。


そのひとつに「本郷の旅館の創立者のほぼ8割は岐阜の出身。
また、そのほとんどが種田さん小池さん」とあり、
本郷の旅館の多くは下宿屋を前身としているともあった。

鳳明館」の小池英夫氏については
「生家は岐阜県安八郡輪之内大吉」と書かれていた。
これが私の西美濃との縁の始まりであった。


では、「本郷館」を建てたのはと
いう疑問を抱きながら「鳳明館」を後に
地元の図書館の地域資料室を訪ねた。

書架に
種田公夫氏著『ひとり語り 種田家ゆかりの人々』
が見つかった。

帰宅して早速読み始めると
著者の父親、種田朝太郎氏は養老町根古地出身、
そして「本郷館」の建造者は同じく根古地の高橋氏とあり、
山田賢二先生の記事にも触れていた。

図書館の司書の方との相談の末、
ありがたくも山田賢二先生から直接『西美濃わが街』をお送りいただき、
これを契機に私共の調査は本格化した。


大垣に山田賢二先生を訪ねてご多忙な中、時間をいただいき話を伺い、
種田家や高橋家のルーツを求めて養老の寺に墓参した。
そして、昨年初秋、
建造者高橋氏の後裔、
大垣在住の児玉範彦氏と高橋俊雄氏との面会に至ったのである。


高橋家は根古地で代々造り酒屋を営み、
その姻戚、児玉氏は庄屋を務めてきた。
両家は明治時代には北海道天塩の石油石炭採掘事業も手掛け、
また、外交官や裁判官を輩出した名門である。

その一門のひとり、高橋千代三郎の妻、高橋澤氏が
本郷館」の初代女将である。


明治39年開業、当時は「本郷旅館」と称した。
相前後して、夫千代三郎氏も高等下宿「本郷館」の経営を始めている。

本郷で成功を収めた西美濃出身の先達、
安八郡川並村平(現在の大垣市平町)の羽根田幸之助氏、

先に触れた養老町根古地の種田朝太郎氏に続いたのであろう。

羽根田氏は明治28年
本郷に美濃人初の、後に谷崎潤一郎ら多くの文人が集い住んだ
菊富士ホテル」へと発展する下宿屋を始め、

種田氏は明治35年、
今も旅館として継承されている「朝陽館」を開いている。


が、高橋氏夫妻は「本郷旅館」、「本郷館」を開業後数年にして手離している。
その理由は分からない。

けれども高橋千代三郎氏の「本郷館」は
同じく養老出身の内堀健蔵氏に、後年、更に種田朝太郎氏・公夫氏親子に受け継がれる。
まさに、西美濃の絆の歴史といえよう。

そして、羽根田氏、種田氏、内堀氏は、
下宿屋街本郷に大きな足跡を残すのである。


明治40年『日本紳士録』の政財界人の名前の中に
「本郷館」の内堀健蔵氏、同じく内堀家の、
その名も「西濃館」の主人、内堀桑次郎氏の名前が挙がる。

以来、戦時の混乱で発行が中断されるまで『日本紳士録』には、
毎年、西美濃の産んだ下宿屋街本郷の指導者達が名を連ねる。

羽根田幸之助とその親戚で「鳳明館」創業者の丹羽源作氏、
種田朝太郎氏とその兄弟で「真成館」を開いた種田荒次郎氏、「朝明館」の種田忠四郎氏。

しかも彼等が率いたのは下宿屋だけではなかった。
本郷というひとつの街の核を成していた。


大正6年、羽根田幸之助氏が本郷区区会議員に当選、
大正10年には内堀桑次郎氏、丹羽源作氏が続いた。
種田荒次郎氏の長男で東京帝国大学に学んだ俊英、
種田清一氏は昭和30年より5期、文京区議会議員の任にあった。

その社会的貢献が裾野の広いものであったことは、
今も本郷の社、桜木神社の玉垣にも窺える。

寄進者として、
種田清一氏、種田忠四郎氏子息の種田武夫氏、
鳳明館を丹羽源作氏から受け継いだ小池英夫氏、
その兄弟で現在の旅館「つたや」の前身を開業した小池正夫氏、
彼等の名前がくっきりと刻まれている。


こうして、
明治38年から1世紀にわたる時を刻んできた「本郷館」を振り出しに
思いがけない、しかし、大きな、
東京本郷の中のもうひとつの西美濃に触れることができた。

縁の育んだ歴史との妙縁を授けてくださった、
山田賢二先生をはじめとする、
『西美濃わが街』の関係者、読者諸氏に感謝して拙稿を結びたい。」

(以上)


関連小冊子 【本郷、下宿屋ものがたり】

 
関連書籍

『集合住宅物語』には、本郷の元下宿屋・現旅館、鳳明館も。
『東京生活 no.11』には、本郷の現役下宿屋「暁秀館」記事。
『ローマ字日記』には、本郷の下宿屋(現旅館、太栄館)で書かれた所も。
『本郷菊富士ホテル』は、文人らが集い住んだ本郷の高等下宿。
『鬼の宿帖』は、同ホテル創業者子息の回想。
『菊坂ホテル』『鬼の栖』は、同ホテルがモデルの漫画・小説。
『男どアホウ甲子園』には、作者水島新司もいた、本郷の下宿屋泰明館が(20巻178・204頁 21巻72・82・90・186頁 25巻118頁に看板 22巻142頁に玄関外観)。







2009年3月9日月曜日

【 大正期公営住宅 記載頁確認資料等 】

(国会図書館所蔵の各県社会事業要覧等)

『秋田県社会事業要覧』 昭和13(1938)年 p207~209

『川崎市社会事業概要』 昭和15(1940)年 p24~29

『愛知県社会事業年鑑』 大正14(1925)年 p95~106

『和歌山市社会事業概要』 昭和10(1935)年 p46~48

『富山市社会事業概要』 昭和17(1942)年 p35

『三重県社会事業概要』 昭和2(1927)年 p138~143

『福井県社会事業概要』 昭和2(1927)年 p35

『京都市社会事業要覧』 昭和11(1936)年 p21~22

『岸和田市社会事業便覧』 昭和7(1932)年 p42~45

『西宮市社会事業要覧』 昭和12(1937)年 p58~61

『岡山県社会事業要覧』 昭和5(1930)年 p115~117

『山口県社会事業紀要』 昭和6(1931)年 p71~73

『呉市社会事業概要』 昭和16(1941)年 p15~19

『徳島市社会事業要覧』 昭和10(1935)年 p35~37

『佐賀市社会事業要覧』 昭和2(1927)年 p13~15

『宮崎県社会事業要覧』 昭和12(1937)年 p172~174 


関連書籍等

『同潤会基礎資料』各巻内容はこちら
『団地日和』にはドラマ仕立て公団PR映像も。
『大いなる幻影』は同潤会大塚女子アパートが舞台。
『戦前期社会事業史料集成4』は(辛亥救災会含む)M43~T11の国内社会事業等の一覧(詳細はこちら
『戦前期社会事業史料集成9』は(大阪初の公営住宅等も掲載の)『日本社会事業名鑑』(T9)の復刻。





【 (現旅館)太栄館=(元下宿屋)蓋平館 関連新聞記事日付等 】

『啄木の下宿だった焼けた太栄館』

 朝日新聞 昭和29(1954)年12月15日8面東京版

※「蓋平館別荘時代」の外観「写真」あり

「近代文学研究家」「野田宇太郎」氏による
 『文学遺跡を惜しむ - 焼失した啄木下宿』

 朝日新聞 昭和29(1954)年12月16日5面

 以上



本ウェブログ関連頁

「本郷、下宿屋ものがたり」目次等

啄木の、本郷の下宿屋滞在期間中の日記 
英文抄訳ブログ 索引 冊子





 
関連書籍

『集合住宅物語』には、本郷の元下宿屋・現旅館、鳳明館も。
『東京生活 no.11』には、本郷の現役下宿屋「暁秀館」記事。
『ローマ字日記』には、本郷の下宿屋(現旅館、太栄館)で書かれた所も。
『本郷菊富士ホテル』は、文人らが集い住んだ本郷の高等下宿。
『鬼の宿帖』は、同ホテル創業者子息の回想。
『菊坂ホテル』『鬼の栖』は、同ホテルがモデルの漫画・小説。
『男どアホウ甲子園』には、作者水島新司もいた、本郷の下宿屋泰明館が(20巻178・204頁 21巻72・82・90・186頁 25巻118頁に看板 22巻142頁に玄関外観)。







【 下宿屋という近代 】 目次等



『 下宿屋という近代 Geshukuya, A Modern Age Tokyo 』

高橋幹夫 著  平成19(2007)年 住宅総合研究財団 発行


所蔵図書館
石川・大阪・香川・神奈川・千葉・東京・新潟・宮城・山梨・文京の各都府県区立
ベルリン国立 等

概要
明治、大正、昭和と、日本の近代化と共に、東京への流入人口の受け皿として機能、
同時代の、欧米由来の様式・工法による同潤会のアパートメント等とは異なる、
自然発生的な集合住宅であった下宿屋を、文献等に基づき詳述した。


目次

【 1章   下宿屋という近代 】
       下宿屋の始まり
       武家屋敷跡や寺の境内に建った下宿屋
       下宿屋という近代

【 2章   下宿屋の暮らし 
       書生と女中さん
       客室
       床の間
       調べ方
       朝食のしたくと火鉢の炭火つけ
       洗面
       新聞配り
       ふとんの上げ下ろしとそうじ
       上げ膳下げ膳
       賄い
       『天井の写るみそ汁』、替え歌、『ひつ換い』
       戦時下の賄いと『どんぶり飯』
       食材の仕入れ
       女中さんの呼び方、手を叩く、呼鈴を鳴らす
       下宿人の呼ばれ方、~番様
       来客の取次ぎ
       お茶、お菓子
       客膳、お酒
       お使い
       電話
       風呂
       下駄、靴の手入れ
       心付け
       洗濯
       貸本屋
       空き間あり
       引越し

【 3章 下宿屋と旅館の間 
       宿屋のおきて
       下宿屋と旅館の兼業
       旅館としての下宿屋
       下宿屋に泊まる

【 4章 下宿屋長者 
       下宿屋長者
       資産家の下宿屋、下宿屋の資産
       『下宿屋の株』
       区議会議員だった下宿屋
       下宿屋の名物恒例行事

【 5章 下宿屋のイメージ 
       現代の下宿屋-家庭的で人情がある
       明治・大正の下宿屋-非家庭的で人情がなく営利的
       自由だった下宿屋
       下宿人の堕落と近代都市

(以上)


関連書籍等

『貼雑年譜』156-157頁に乱歩経営下宿屋の広告・平面図。
『屋根裏の散歩者』は、下宿屋が舞台。


2009年2月24日火曜日

【 受難の微笑 】(本郷の下宿屋/旅館 朝陽館 資料




小林要吉(1898?~1933)著
『受難の微笑』 (大正15(1926)年)

国会図書館所蔵

著者は、本郷の下宿屋(後に旅館)朝陽館に滞在、
本書で以下の通り、朝陽館に言及。


「弓町の朝陽館へこした。
お子さんが英馬と同じ元町小学校へ出ているので、
監督旁々下宿して貰いたいとの事であった。

この朝陽館の主人というのは、
まだ東京へ出て十年ほどにしかならない位の事であったが、
困苦して本郷では有名な下宿屋に仕上げたのである。

毎朝主人が真先に立って、番頭をつれて魚河岸と野菜市場へ買出しに行ってくる。
この奮励振りが、到頭この大きな下宿にしてしまったのである」(p142~143)

「二十四歳に東京に出てから、もう三十歳になった今日まで、足かけ七年間
朝陽館に我がままの限りをつくしていたのであるが、
もう朝陽館の長男の忠雄さんも、十八歳になったし、
次男の公ちゃんも十五歳になったので、
監督の必要も大して要らない」(p180)

「左の眼が赤くなって眼やにが沢山出ている。
それが間もなくひどい充血を起こして
非常に注意したにも拘わらず右眼に移ってしまった。

医者は、「三四日氷で冷やしつづけよ」というのである。

英馬には苦しい事であった。
遠い神田にいて用事の多くを持っている妹を招ぶわけにはならない。
看病して貰いたくとも頼むべき人がいない。

仕方なく朝陽館へ。

「忠雄さんにぜひ来て頂きたい。
序に一貫目ほどの氷を買って来て下さい」

と電話をかけた。

もう十八歳になっていた忠雄さんは、すぐ氷を持って来てくれた。
そして両の眼にそれを当てて、看病してくれるのである。

「忠雄さんすまないね。用事もあるだろうに呼びたてて」

「どういたしまして。
どんな用事でも、出来る事ならお安い御用です!」

と快く看病してくれるのである。

「お父さんからも、お母さんからも、よく看病して来い」

と言われて来たといって、
何くれとなく看取ってくれるのである。

英馬は忠雄さんところのお父さんお母さんのこうした心持ちには常に感謝している。

龍岡町にいる時、
元町の方へ出かけて春木屋で蕎麦を食った。

「蕎麦屋さん!私いただきましたけれど財布を忘れて来て一文もありませんが」
「はあ!・・・」

仕方ない客だ。
食い逃げでもするつもりで来たのかも知れない。
大面して食いやがってといった顔つきで、
ガラリと変わるのは商人の根性である。
なるほど商売人からすれば、
金があってのお得意さまで下にもおかないわけだが、
愈々金がないと定まれば、
着物を剥いでも取らねばならない。
それでも取る事が出来なければ足蹴にしても放り出さねばならない。
主人は今其の顔付きをしている。
英馬は、

「電話をおかし下さい。
料金は持っておらないが御損はおかけしませんから」

主人はいぶかしげな顔で貸すともなく、
貸さないともなく

「はあ・・・」

朝陽館ですか、
今春木屋へよったのですがあいにく財布を忘れて来ましてね。
後でお払い致しますが、
お家の帳面につけて頂くように此処へお願いしていきますから、
何卒よろしく」

主人も番頭もさげすむ眼つきで英馬を見ている。
とにかく主人に頼んで春木屋を出た。

其の後へ

「瀧澤先生はいらっしゃいますか、
お金を持ってきたところです」

と忠雄さんがせきこんで駆け付けた。

忠雄さんは、

「蕎麦は帳面でも何でもよいが、
財布をお忘れになられては何処へいらっしゃるにも御不便だ、
早くに此の五円札を持っていってお上げなさい」

とお母さんから言いつけられて後を追ったのだ。

英馬は今又其の忠雄さんの手を煩わして、
両の眼にガーゼを当て、其の上に氷をのせ、
仰向きに寝たまま、全然光を見ないでいる」(p204 ~207)



 
関連書籍

『集合住宅物語』には、本郷の元下宿屋・現旅館、鳳明館も。
『東京生活 no.11』には、本郷の現役下宿屋「暁秀館」記事。
『ローマ字日記』には、本郷の下宿屋(現旅館、太栄館)で書かれた所も。
『本郷菊富士ホテル』は、文人らが集い住んだ本郷の高等下宿。
『鬼の宿帖』は、同ホテル創業者子息の回想。
『菊坂ホテル』『鬼の栖』は、同ホテルがモデルの漫画・小説。
『男どアホウ甲子園』には、作者水島新司もいた、本郷の下宿屋泰明館が(20巻178・204頁 21巻72・82・90・186頁 25巻118頁に看板 22巻142頁に玄関外観)。