2024年3月30日土曜日

下宿屋(「明治時代史大辞典 1 あ〜こ亅より)

 以下、筆者は、本ブログ管理者、髙橋幹夫


「部屋と食事を月ごとの支払いを受けて提供する住形態。一般に住み込みの女中がおり、1日3食もしくは2食の賄いの膳が各室に上げ下げされたほか、下宿人の客に出す食事(客膳)や茶菓・酒なども供された。下宿屋によっては、共用の風呂があり、女中による布団の上げ下ろしや掃除、履物の手入れなどもなされた。また、下宿屋には長期滞在者のほか、東京での通院や博覧会見物、政治活動などのための宿泊者がいた例が確認でき、統計にも旅人宿(現在でいう旅館)との兼業が少なくないことがしめされている。教育機関の集中していた東京の神田と本郷に多かった。下宿屋は明治11年(1878)まで違反であつた。警視庁の旅人宿規則により、期間の長短を問わず宿泊滞在施設は旅人宿として警察から鑑札を得たものだけが認められていた。下宿できるのも旅人宿のみだった。同年、旅人宿規則を従来の旅人宿とともに賄い付き下宿などにも適用する改正がなされた。明治19年には、内務省訓令により「街路取締及ビ乗合馬車・人力車・宿屋営業ニツキ取締規則ノ標準」が示され、これを受け、東京をはじめ各府県で宿屋営業取締規則が、制定され、3種の宿屋(旅人宿・下宿・木賃宿)の一つと位置づけられ、営業には警察からの免許取得が義務づけられた。同年から、警視庁の統計に軒数などが公表された。下宿屋の経営者には、高収益を得た者も少なくなく、『日本紳士録』第1版(明治22年)から第47版(昭和18年)までに約300人の下宿屋経営者が確認できる。東京本郷区では、区議会議員を努めた下宿屋経営者もおり、明治22年(1889)から大正14年(1925)までに10名を数えた。明治期、下宿屋は、享楽的・営利的・非家庭的との世評を持たれ、新聞や雑誌で識者による批判の対象となることもあった。宿屋営業取締規則は現行の旅館業法に発展・継承され、現在の下宿屋の法的根拠となっている。」